第32話 モアナ湖へ
出発は早朝。モアナ湖へは馬車で向かう。
戦いになる可能性は低いけど、万が一を考え、御者もつけない。当事者でない人を巻き込みたくはない。
では、誰が馬車を操るかだけど――
「僕に任せてくれ。専門家ほどとはいかないけど、御者はこなせるんでね」
レイゼム様が御者を務めてくれることになった。
「さ、出発進行」
専門家ほどではないと言ってたけど、レイゼム様の御者ぶりは見事だった。
馬車をむやみに揺らすことなく、馬を興奮させることなく、順調に旅路は進む。
道程が中盤まで差し掛かるが、これといって危険な出来事は起こらなかった。
「私、モアナ湖って初めて行くのよね~。楽しみ!」
「ピクニックに行くんじゃないんだから……」
「えへへ……」
ミルフィをたしなめるも、こういう時はこの子の天真爛漫さが救いになる。あまり深刻な空気だと、不安ばかり募ってしまうしね。
「モアナ湖は美しい湖だよ。そして、海のように広い。今日は晴れているし、絶景を楽しめるんじゃないかな」
レイゼム様も会話に加わる。
「行かれたことがあるんですか?」
「まあ、観光にね。湖にさえ入らなければ危険はないし」
そう、モアナ湖に怪魚ネーヴィスが住んでいる。
ディロイアル公爵様が呑まれていなければよいのだけど。
昼すぎになり、馬車はモアナ湖に到着した。
緑に囲まれた美しい湖だった。想像よりずっと大きい。
鮮やかな青い水面が、一面に広がっている。もし湖と知らずに来たら、ここを海だと思ってしまってもおかしくはない。
「綺麗だね、お姉様!」
「ええ……心が洗われるようだわ」
ただの観光でここに来ることができたら、どんなによかったか。
しかし、今は湖の美しさに心を奪われている暇はない。
ウォーゲンの父上、ディロイアル公を探さなければならない。
しかし、ここからどう探すのかが問題だ。
ミルフィも同じことを思ったようだ。
「レイゼム様、これからどうするんです?」
私も尋ねる。
「怪魚に気づかれないよう、船を出すのですか?」
レイゼム様は首を左右に振った。
「船を出したところで湖底に沈むディロイアル公を発見するのは不可能だ」
「それは、そうですね」
「だから……大規模な魔法を使う」
レイゼム様は私の方を向いた。
「君にも手伝って欲しい」
「なんなりと」
「ディロイアル公がいる位置、今からでもざっと分かるかい?」
「大丈夫、だと思います」
私は集中する。
すると、近くまで来ていることもあってか、前より早くディロイアル公の位置を察知することができた。
湖のある方向を指差す。
「ここ。この方向にあります」
間違いなかった。今度は断言できる。
「よし、それじゃ僕の魔法の出番だね」
レイゼム様は詠唱を始める。
難しい単語が並ぶけど、節々の言葉で水に関する魔法を使うのだろうというのは想像がつく。
しかし、私が見ることになる光景はまさに想像を絶していた。
レイゼム様が両手を前に突き出して、力を込める。
――湖が二つに割れた。
湖の水が左右に割れて、湖底の岩肌がむき出しになっている。
まさに天変地異、いやそれ以上だ。湖に嵐や台風が来たってこんなことにはならない。
魔法の凄まじさ、恐ろしさをまざまざと見せつけられた思いだった。
横目でミルフィを見ると、口をあんぐりと開けている。無理もない。私だって心の中はそんな感じだもの。
ただし、レイゼム様の額には汗がにじみ、息も切らしている。相当無理をしているのが分かる。
「レイゼム様、大丈夫ですか?」
「なんとかね……。これで湖の底を歩ける。さあ、ディロイアル公を探しに行こう」
三人で湖に足を踏み入れようとした瞬間、背後から声がかかる。
「そこまでだ」
――振り返ると、そこには五十人ほどの兵士が立っていた。
全員、簡素な黒い鎧を身につけ、剣を握っている。
中心にいる部隊長とおぼしき人は、まだ私たちぐらいの若者だった。
レイゼム様が顔をしかめる。
「黒刃隊……!」
ディロイアル家、というよりウォーゲンに仕える私兵部隊。
ウォーゲンがなんらかの妨害策を講じているのは予想していたけど、最強の兵士を配備していた。
隊長――男爵令息のシュラト・ステイクが言う。
「その湖を探索させるわけにはいかない。お前たちにはここで死んでもらう」
レイゼム様が魔法を撃とうとするが、シュラトはぼそりと、しかしはっきり聞こえる声でつぶやく。
「そんなことをすれば、湖はどうなるかな?」
「くっ……!」
レイゼム様の状態を見切っていた。
湖を割るのは相当な無理をする大魔法。これを維持したまま黒刃隊と戦うことは不可能だ。湖を元に戻せば、再び割るのはこれまた不可能。
まだ間合いも遠く、私の石化の力も届かない。
「セルフィス嬢、あなたの力もこの距離では届かないらしいな。でなければ、我々はとっくに全員石化しているはずだ」
状況判断も恐ろしく早い。傭兵軍団だけあって、やはり戦い慣れしている。
「さらに、こうしてしまえば、あなたの力は無力化する」
黒刃隊は剣を持っていない方の腕で薄手の布を持ち、自分の体をカバーした。
これではたとえ距離が近くても、私の石化は届かない。
ウォーゲンから私の石化を防ぐ方法を聞いていたのだろう。
シュラトが最も恐れていたのはレイゼム様だ。
だからこそ、レイゼム様が大魔法を使うタイミングを見計らってこうして現れた。
さらに、石化対策もしている。
あと少しなのに……ウォーゲンはやはり恐ろしい男だ。こういう時に私たちが最も嫌がる手を打ってきた。
ここで彼らと戦うべきか、湖に入るべきか、選択を迫られる。
「――お姉様!」
ミルフィが前に出た。
「ここは私に任せて、お姉様とレイゼム様は湖に行って!」
「ミルフィ!?」
「レイゼム様は戦えないし、お姉様は石化された公爵様を探すのに必要。だとしたら、ここは私が食い止めるしかないもの!」
「なにを言ってるの。あなたも一緒に……」
「無理よ。悠長に公爵様を探させてくれるほど、あの人たちは甘くない。誰かが食い止めないと……だから私がやる!」
冗談じゃない。妹をそんな死地に送り込めるわけがない。
「そんなこと許さないわ!」
「お姉様!!!」
ミルフィの一喝。私の心の芯まで響く。
「ここで私に任せてくれなきゃ、姉妹の縁切るから! いいから行って!」
「……!」
「大丈夫。ガルドさんとの試合見たでしょ? 私も強くなったんだから!」
レイゼム様も疲労のある表情で私に促す。
「ここはミルフィーネに任せるのが最善だ。僕たちは湖に向かおう」
その通り。分かっている。
公爵様を探し出すには私とレイゼム様が絶対必要だから、黒刃隊はミルフィが相手するしかない。
「……分かったわ。だけど、絶対死んじゃダメよ!」
「もちろん! 私もレイゼム様みたいないい男と出会いたいしね!」
こんな時にまで軽口を叩くミルフィが本当に頼もしい。
「じゃあ、ミルフィ……せめてこれぐらいはさせて」
私はミルフィに“置き土産”をすると、レイゼム様とともに湖に入った。
こうなった以上、急がなければならない。
絶対死んだらダメよ! ……ミルフィ!




