――第 8 幕 無限回廊のジョギングと教授のループ――
白い呼気が、視界の隅で凍りつく。
街路樹の植え込み。 私はその陰に身を潜め、文庫本『こゝろ』を開いていた。 ページをめくる指先は、かじかんで感覚がない。
視線は活字ではなく、通りの向こう側、彼女の下宿へと続く一本道に釘付けになっている。
来るはずだ。 私の計算では、彼女はあと三分十二秒でここを通過する。 その瞬間に、私は「偶然」を装って飛び出し、完璧な角度で挨拶を決める。
シナリオは完成している。 カバンの中には、黄金の玉子焼き。 手には漱石。 完璧だ。
「おや、奇遇だね」
頭上から、湿った熱気が降り注いだ。
ビクリと肩が跳ねる。 心臓が肋骨の裏側を強打した。
見上げる。 そこにいたのは、季節感を完全に無視した「熱源」だった。
久野教授。 黒のジャージ上下。首には真っ白なタオル。 真冬の寒空の下だというのに、彼の全身からは、茹で上がったばかりの肉まんのように、もうもうと白い湯気が立ち上っている。
「……先生」 喉から絞り出した声は、かすれて聞き取れない。
「君も走り込みか? 感心だね。一緒にどうだ」
拒否権はない。 彼の笑顔は、絶対的な「肯定」の圧力を伴って、私の退路を物理的に塞いでいる。
私は無言で立ち上がり、彼の隣に並んだ。 走り出す。 タッタッタッ。 小気味良い足音が、アスファルトを叩く。
しかし。
五分経過。 十分経過。
おかしい。 呼吸が荒くなる。肺の奥が冷気で焼け付くように痛い。 だが、それ以上に異常なのは、この「風景」だ。
並木道のポプラ。 電柱の広告。 路肩に捨てられた空き缶。
さっき見た。 いや、何度も見ている。
走っても、走っても、景色が更新されない。 まるで、壊れた映写機が同じフィルムの断片を何度も再生しているように、同じ並木道が延々と繰り返されている。
ルームランナー。 世界が私の足元でスライドしているだけで、座標が一切移動していない感覚。
「それでね、娘が口を利いてくれないんだ」
先生の声だけが、一定のリズムで鼓膜を殴り続ける。
「パパ、臭いって。酷いと思わないか?」
ハァ、ハァ、ハァ。 私の呼吸音と、先生の愚痴が不協和音を奏でる。
彼の言葉は、意味を持った音声情報ではない。 黒い「文字の塊」となって口から吐き出され、私の顔面に物理的な質量を持って衝突してくる。
重い。 一言喋るたびに、空気の密度が上がり、足に泥のような負荷がかかる。
「まだ……着かないの、ですか」
私は喘ぎながら問う。 大学までは、走れば十五分の距離のはずだ。 腕時計を見る。 秒針が、狂ったような速度で回転している。あるいは、止まっているのか?
認識がゲシュタルト崩壊を起こす。
「あの子も昔は可愛かったんだがなぁ」
先生は止まらない。 彼の周囲だけ、時空が歪んでいる。 彼の愚痴が終わるまで、この「無限回廊」の出口は開かないのだ。
目の前がチカチカと明滅する。 貧血か、それとも世界のフレームレートが落ちているのか。
汗が目に入る。 塩辛い痛み。 隣を走る先生の横顔は、立ち昇る湯気で陽炎のように揺らぎ、輪郭が溶け出している。
逃げられない。 私の完璧な計画が、玉子焼きが、この不毛なジョギングの中で摩耗し、すり減っていく。
「――おっと、もうこんな時間か」
唐突に。 先生が足を止めた。
ガクン。 急ブレーキをかけられた車のように、私の体がつんのめる。
景色が固定される。 見慣れた大学の東門が、忽然と目の前に出現していた。
やっと、着いた。 膝に手をつき、酸素を貪る。 肺が痙攣し、喉の奥から鉄の味がする。
先生は涼しい顔でタオルで汗を拭い、爽やかに言った。
「いい汗かいたな。じゃあ、飯でも行くか」
私の絶望は、物理的な「耳鳴り」となって、キーンと脳内を駆け巡った。 まだ、解放されない。
カバンの中の玉子焼きが、ゴトりと重い音を立てて位置を変えた。 まるで、私の敗北を嘲笑うように。




