――第 7 幕 黄金の玉子焼きと完全なプラスチック――
換気扇が、低い唸り声を上げている。 ブーン、ブーン。 その回転音だけが、早朝の四畳半を支配する唯一のBGMだ。
私は冷蔵庫の扉を開く。 冷気と共に、昨夜の残り香――酸化した醤油と、古いキャベツの芯の臭い――が漏れ出してくる。
卵パックを取り出す。 特売のL玉。 本来なら、殻は脆く、黄身の色も薄いはずだ。
だが、今日の私は違う。
コンロのつまみを捻る。 ボッ。 青い炎が円形に広がり、安物のテフロン加工のフライパンを舐める。
サラダ油を垂らす。 その液体は、熱せられた表面を滑るように広がり、物理的にありえないほど均一な油膜を形成した。 鏡面。 フライパンの上には、完全な水平面が出現している。
卵を割る。 カカッ、という乾いた音。
殻が入らない。 白身が垂れない。 重力すらもが、今の私の指先に従順に従っている。
菜箸でかき混ぜる。 シャカシャカシャカシャカ……。 手首のスナップが生み出す回転は、人間業ではない速度に達し、黄色の液体を残像に変える。
この瞬間、私はこの狭い台所の王だ。 今日の忘年会。そこでの振る舞い。彼女との再会。 全てのシナリオが、脳内で完璧に構築されている。
この玉子焼きは、そのシナリオを実現するための、最強の兵器だ。
ジュワァァァァ……。
卵液を流し込む。 沸騰した油が上げる破裂音が、私にはスタジアムの歓声のように聞こえる。
菜箸を入れる。 巻く。 ここだ。
手首を返す。 その動きに合わせて、卵焼きはまるで自らの意志を持つ軟体動物のように、つるりと身を翻し、奥へと巻き上がった。
焦げ目がない。 崩れがない。 皺一つない、黄金色の円柱。
完成したそれは、湯気を立てているにも関わらず、食品特有の「揺らぎ」を一切持っていない。 デパートのショーケースに並べられた、蝋細工の食品サンプル。 あるいは、工場でプレス成形されたプラスチックの塊。
無機質。
あまりにも完璧すぎて、生物としての食欲を一切刺激しない「美」の結晶。
「……芸術だ」
誰に向けたでもない独白が、換気扇のノイズに吸い込まれる。
私はそれを包丁で等分に切り分ける。 サクッ、というスポンジを切るような音が、まな板から響く。 断面もまた、気泡一つない完全な黄色。
タッパーに詰める。 隙間なく、幾何学的に配置する。
蓋を閉める。 パチン。 密閉音が、この空間の空気を遮断した。
風呂敷で包み、それを持ち上げる。
ズシリ。
腕の筋肉が軋んだ。 おかしい。 卵数個分の重量ではない。 まるで、中に鉛のインゴットでも詰め込んだかのような、不自然な質量。
私の肥大化した自意識が、物理的な重さとなってタッパーの中に凝縮されている。
だが、今の私はその異常性に気づかない。 むしろ、この重みこそが「手応え」だと誤読する。
窓の外では、冬の朝日が白々と昇り始めている。 光の粒子が、埃の舞う台所を照らし出す。
勝てる。 この黄金の塊さえあれば、私は今日、世界を征服できる。
私は重たい風呂敷包みを、カバンの底へと沈めた。 ファスナーを閉める。 ジジジ、という金属の噛み合う音が、時限爆弾のタイマー起動音のように、静かな部屋に響いた。




