――第 6 幕 孤独な帰路と信号機のパレード――
自動ドアが開く。 その瞬間、冬の夜気が濡れた雑巾のように顔面に張り付き、毛穴という毛穴を強制的に収縮させた。
寒い。 いや、痛い。
居酒屋「秀」で摂取した熱燗の熱量は、店を出てからわずか数秒で大気に略奪された。 残ったのは、血管の中を循環するアルコールの毒素と、重力を増した肉体だけ。
私は自転車のハンドルを握る。 錆びついたチェーンが、チリチリと不愉快な金属音を立てて回り始める。
帰ろう。 この薄汚れた路地裏から、私の聖域(四畳半)へ。
ペダルには足をかけず、トボトボとアスファルトの上を歩く。 靴底が地面を擦る音が、深夜の住宅街に虚しく響く。
ふと、自嘲が漏れる。 「……私はなんという、残念な子でしょう」
太宰治、『斜陽』。 文庫本の一節を口の中で転がしてみる。 酔っ払いの感傷だ。だが、この惨めなシチュエーションには、悲劇的な独白こそが相応しい。
街灯が等間隔で並んでいる。 その光は白く、冷たく、私の影をアスファルトに縫い付けようとしている。
「――こんばんは」
背後。 音もなく、声だけが鼓膜を震わせた。
心臓が肋骨を裏側から殴りつける。 自転車が大きく揺れ、ペダルが私の脛を打った。
鈍い痛み。 息を呑んで振り返る。
そこに「それ」はいた。
女子学生だ。 新文化部の書記。名前は……思い出せない。 記憶領域のデータベースに、彼女の固有名詞は登録されていない。
彼女は、自転車に乗ったまま、片足だけを地面につけて静止している。 逆光。 街灯の明かりが彼女の背後から差し込み、顔面の凹凸を完全に消し去っている。 のっぺらぼう。あるいは、輪郭だけの影絵。
「……ああ、奇遇だね」
喉から出た声は、ひどく掠れていた。 彼女は何も答えない。 ただ、クリップボードのように無機質な視線を、私に向けている(ような気がする)。
気まずい。 肺の中の酸素濃度が急激に低下する。
逃げたい。 この得体の知れない「事務機能」から、一刻も早く離脱したい。
私は無言で自転車を押し、歩き出した。 彼女もまた、無言でついてくる。
二台の自転車が並走する音。 ジャリ、ジャリ、ジャリ。 タイヤが小石を踏む音が、不規則なリズムでシンクロし、私の三半規管を狂わせる。
前方に、交差点が見えた。 信号は赤だ。
よし。 あそこで止まれば、会話を切り上げる口実ができる。 「じゃあ、私はこっちだから」と言って、物理的にルートを分岐させればいい。
私はその赤い光を救いとして、歩調を緩めた。
カチリ。
乾いたリレー音が、夜空に響く。
青。 私が停止線に足をかける直前、赤信号は一度の警告もなく、鮮やかな緑色へと変貌した。
「……え?」
足が止まらない。 慣性が、私を交差点の中へと押し出す。
偶然だ。 そう自分に言い聞かせ、次の交差点を目指す。 あそこには、長い待ち時間で有名な国道がある。あそこなら確実に止まれる。
だが。
カチリ。 青。
カチリ。 青。
異常だ。 私の進行方向に存在する全ての信号機が、私が近づくタイミングに合わせて、まるでドミノ倒しのように道を空けていく。
待て。 止まれ。
私は親指の爪の付け根を強く押し込む。 痛みで現実にブレーキをかけようとする。
しかし、都市システムは私の意思を無視して稼働し続ける。 左右の道路はすべて赤で封鎖され、車は一台も通らない。 世界には今、私と彼女が進むこの一本道しか存在していないかのように。
これは誘導だ。 見えないベルトコンベアに乗せられ、屠殺場へと運ばれる家畜の気分。
「明日は忘年会です」
隣から、平坦な声が落ちてきた。 抑揚がない。 駅の自動改札機がエラーを告げる時のような、感情を削ぎ落とした音声データ。
「……ああ、そうだったかな」 「来ますよね?」
疑問形ではない。 確認ですらない。 それはシステムログへの「入力要求」だ。
信号は青のままだ。 私の逃走ルート(赤信号による停止)は、物理的に消去されている。 この無限に続く緑色の光の回廊を抜けるには、正しいパスワードを入力するしかない。
喉の奥が張り付く。 胃の中で、消化しきれていない熱燗が酸っぱい液となって逆流する。
私は観念して、重い口を開いた。
「……ぜひ参加させて頂きます。です」
カチリ。
その言葉を吐き出した瞬間、前方の信号機が赤に変わった。 道が閉ざされる。 同時に、彼女の自転車が私の横を追い抜いていく。
「では」
彼女は一度もこちらを見ることなく、ペダルを踏み込んだ。 夜闇の中へ溶けていく背中。 そのシルエットは、最初からそこには誰もいなかったかのように、あまりにも希薄だった。
後に残されたのは、私と、赤く明滅する信号機だけ。 アスファルトの水たまりに反射した赤い光が、血痕のように滲んでいる。
逃げ場はない。 明日の夜、私は「運命」という名の処理場へ出荷されることが確定した。




