表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

7/55

――第 6 幕 孤独な帰路と信号機のパレード――

 自動ドアが開く。 その瞬間、冬の夜気が濡れた雑巾のように顔面に張り付き、毛穴という毛穴を強制的に収縮させた。

 寒い。 いや、痛い。

 居酒屋「秀」で摂取した熱燗の熱量は、店を出てからわずか数秒で大気に略奪された。 残ったのは、血管の中を循環するアルコールの毒素と、重力を増した肉体だけ。

 私は自転車のハンドルを握る。 錆びついたチェーンが、チリチリと不愉快な金属音を立てて回り始める。

 帰ろう。 この薄汚れた路地裏から、私の聖域(四畳半)へ。

 ペダルには足をかけず、トボトボとアスファルトの上を歩く。 靴底が地面を擦る音が、深夜の住宅街に虚しく響く。

 ふと、自嘲が漏れる。 「……私はなんという、残念な子でしょう」

 太宰治、『斜陽』。 文庫本の一節を口の中で転がしてみる。 酔っ払いの感傷だ。だが、この惨めなシチュエーションには、悲劇的な独白こそが相応しい。

 街灯が等間隔で並んでいる。 その光は白く、冷たく、私の影をアスファルトに縫い付けようとしている。

「――こんばんは」

 背後。 音もなく、声だけが鼓膜を震わせた。

 心臓が肋骨を裏側から殴りつける。 自転車が大きく揺れ、ペダルが私の(すね)を打った。

 鈍い痛み。 息を呑んで振り返る。

 そこに「それ」はいた。

 女子学生だ。 新文化部の書記。名前は……思い出せない。 記憶領域のデータベースに、彼女の固有名詞は登録されていない。

 彼女は、自転車に乗ったまま、片足だけを地面につけて静止している。 逆光。 街灯の明かりが彼女の背後から差し込み、顔面の凹凸を完全に消し去っている。 のっぺらぼう。あるいは、輪郭だけの影絵。

「……ああ、奇遇だね」

 喉から出た声は、ひどくかすれていた。 彼女は何も答えない。 ただ、クリップボードのように無機質な視線を、私に向けている(ような気がする)。

 気まずい。 肺の中の酸素濃度が急激に低下する。

 逃げたい。 この得体の知れない「事務機能」から、一刻も早く離脱したい。

 私は無言で自転車を押し、歩き出した。 彼女もまた、無言でついてくる。

 二台の自転車が並走する音。 ジャリ、ジャリ、ジャリ。 タイヤが小石を踏む音が、不規則なリズムでシンクロし、私の三半規管を狂わせる。

 前方に、交差点が見えた。 信号は赤だ。

 よし。 あそこで止まれば、会話を切り上げる口実ができる。 「じゃあ、私はこっちだから」と言って、物理的にルートを分岐させればいい。

 私はその赤い光を救いとして、歩調を緩めた。

 カチリ。

 乾いたリレー音が、夜空に響く。

 青。 私が停止線に足をかける直前、赤信号は一度の警告もなく、鮮やかな緑色へと変貌した。

「……え?」

 足が止まらない。 慣性が、私を交差点の中へと押し出す。

 偶然だ。 そう自分に言い聞かせ、次の交差点を目指す。 あそこには、長い待ち時間で有名な国道がある。あそこなら確実に止まれる。

 だが。

 カチリ。 青。

 カチリ。 青。

 異常だ。 私の進行方向に存在する全ての信号機が、私が近づくタイミングに合わせて、まるでドミノ倒しのように道を空けていく。

 待て。 止まれ。

 私は親指の爪の付け根を強く押し込む。 痛みで現実にブレーキをかけようとする。

 しかし、都市システムは私の意思を無視して稼働し続ける。 左右の道路はすべて赤で封鎖され、車は一台も通らない。 世界には今、私と彼女が進むこの一本道しか存在していないかのように。

 これは誘導だ。 見えないベルトコンベアに乗せられ、屠殺場へと運ばれる家畜の気分。

「明日は忘年会です」

 隣から、平坦な声が落ちてきた。 抑揚がない。 駅の自動改札機がエラーを告げる時のような、感情を削ぎ落とした音声データ。

「……ああ、そうだったかな」 「来ますよね?」

 疑問形ではない。 確認ですらない。 それはシステムログへの「入力要求」だ。

 信号は青のままだ。 私の逃走ルート(赤信号による停止)は、物理的に消去されている。 この無限に続く緑色の光の回廊を抜けるには、正しいパスワードを入力するしかない。

 喉の奥が張り付く。 胃の中で、消化しきれていない熱燗が酸っぱい液となって逆流する。

 私は観念して、重い口を開いた。

「……ぜひ参加させて頂きます。です(・・)

 カチリ。

 その言葉を吐き出した瞬間、前方の信号機が赤に変わった。 道が閉ざされる。 同時に、彼女の自転車が私の横を追い抜いていく。

「では」

 彼女は一度もこちらを見ることなく、ペダルを踏み込んだ。 夜闇の中へ溶けていく背中。 そのシルエットは、最初からそこには誰もいなかったかのように、あまりにも希薄だった。

 後に残されたのは、私と、赤く明滅する信号機だけ。 アスファルトの水たまりに反射した赤い光が、血痕のように滲んでいる。

 逃げ場はない。 明日の夜、私は「運命」という名の処理場へ出荷されることが確定した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ