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――第 5 幕 策士の猪口と完全なぬる燗――

 目の前に突き出された猪口(ちょこ)の縁に、紅い脂の跡が付着している。

 誰かの口紅だ。 洗浄機をすり抜けた他者の唾液と、安っぽいワックスの残留物。 白い陶器の肌に、暴力的なまでの異物感でへばりついている。

「……飲めや」

 早川の声と共に、徳利が傾けられる。 トクトク、という音。 本来なら風流であるはずのその水音も、この油とヤニにまみれた空間では、排水溝に汚水が流れ込む音と大差がない。

 液体が表面張力で盛り上がる。 私は口紅の跡を避けるようにして、猪口に口をつけた。

 粘膜(ねんまく)を刺す、ツンとしたアルコール臭。 そして、ぬるい。 熱燗と呼ぶにはあまりに中途半端な、冷めた体液のような温度。

「で、どうするんや」

 早川が自身のグラス――表面に無数の洗い傷がついた曇ったガラス――を、ドンとテーブルに叩きつける。 その振動で、小皿の上の千枚漬けが微かに跳ねた。

「明日になれば解決する言うたな。具体的に何があるんや」

 彼の視線は濁っている。 エタノールによって脳の処理速度が低下している証拠だ。 赤ら顔の毛穴から吹き出る汗が、店内の照明を反射してギラギラと光っている。

 不快な湿度。 私の半径一メートル以内を侵食する、生物的な熱量。

 だが、私は口元の端を吊り上げた。 この質問を待っていた。

 懐から、一枚の紙片を取り出すわけではない。 スマホの画面を見せるわけでもない。 ただ、一言。 世界を書き換えるための呪文を、慎重に口蓋で転がしてから吐き出す。

「……サークルの、忘年会だ」

 一瞬の間。 換気扇の轟音と、隣の席の学生集団が上げる奇声だけが、二人の間の空間を埋める。

「は?」

 早川の顔が、呆れと怒りの混合で歪む。 想定通りの反応だ。 彼にとって、それはただの「飲み会」というスケジュールの一つに過ぎない。

 だが、私にとっては違う。 それは、運命という名の巨大な歯車を強制的に回すための、精緻に計算された舞台装置(ギミック)だ。

 私は語り始めた。 いかにして私がその場を支配し、いかにして彼女と「偶然」隣り合わせ、そして、いかにして自然な流れで連絡先を交換するか。 その完璧なシミュレーションを。

 言葉が熱を帯びる。 肺の奥から、熱い塊がせり上がってくる。

 その時だ。 テーブルの上の物理法則が、私の高揚に共鳴(ハウリング)し始めた。

 カタカタカタ……。

 微細な振動音。 早川の手元にある徳利が、誰の手も触れていないのに小刻みに震えている。

「……ん?」

 早川が怪訝そうに眉を寄せる。 彼は気づいていない。 店内の空調による風でも、トラックの通過による振動でもない。

 私の「情熱エゴ」が、物理的な振動エネルギーへと変換され、陶器を揺らしていることに。

 さらに、現象は加速する。 徳利の口から、先ほどまでは存在しなかった白い蒸気が、狼煙のように立ち昇り始めた。

 ゆらり、ゆらり。

 周囲の空気が陽炎のように歪む。 冷め切っていたはずの酒が、分子レベルで再加熱されている。 電子レンジもガスコンロもない、この薄汚れたテーブルの上で。

「なんやこれ、湯気すごないか?」

 早川が徳利に手を伸ばす。 その指先が、陶器の肌に触れた瞬間。

「あっちぃ!」

 彼は手を引っ込めた。 反射的な回避行動。 指先が赤く変色している。

 当然だ。 今の私の思考は沸点に達している。それに呼応して、酒の温度も最適化されたのだ。

「店員、温め直しよったんか……?」

 早川は首を傾げながら、自分の火傷した指を耳たぶで冷やしている。 鈍感(ニブ)い。 彼は目の前で起きた超常現象を、「店員の気まぐれ」という常識の枠内に無理やり押し込んで処理した。

 これが「正常な人間」の反応だ。 彼らは、世界が物理法則に従って動いていると信じて疑わない。 だからこそ、私のような「例外」の存在に気づかない。

 私は、自らの能力で加熱された徳利を手に取った。 熱い。 だが、その熱さが心地よい。皮膚のタンパク質が変質するギリギリの温度。

 手酌で猪口に注ぐ。 トクトク、という音が、先ほどよりも高く、澄んだ音色に変わっている。

 口に含む。

 完璧だ。 五臓六腑(ごぞうろっぷ)に染み渡る、理想的な熱量。 アルコールの刺激が、私の脳髄を直接撫で回し、全能感を加速させる。

「……勝算はある」

 根拠などない。 あるのは、この異常な現象を引き起こすほどの、肥大化した自意識だけ。

 早川は狐につままれたような顔で、再び自分のグラスを煽った。 氷がカランと音を立てる。 その音は、私の熱狂とは無縁の、冷たく現実的な響きを持っていた。

「お前、ほんまに捕まるぞ」

 彼の忠告は正しい。 だが、もはや手遅れだ。 私の体内では、すでに明日の作戦に向けたエンジンが、ドロドロとした黒い排気ガスを吐き出しながら回転を始めている。

 天井の蛍光灯が、チカチカと不規則に明滅した。 まるで、これから始まる喜劇の幕開けを告げる、壊れた合図のように。

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