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――第 4 幕 粘着する床と選別された騒音――

 靴底が、床に吸い付いた。

 歩くたびに、ベチャ、ベチャと、粘着テープを剥がすような音が足裏から伝わってくる。 長年の油煙と、こぼれたアルコールと、何千人もの客の靴裏の汚れが積層し、黒い(にかわ)となって床面をコーティングしている。

 居酒屋「秀」。 大学裏の路地にある、安さと汚さを売りにした学生たちの吹き溜まり。

 通されたのは奥のテーブル席だ。 壁紙はタバコのヤニで茶色く変色し、所々がめくれ上がって、下地のコンクリートが覗いている。

「とりあえず、熱燗二合。あと千枚漬け」

 早川が注文する。 彼の声は大きく、そして熱い。 狭い店内に充満した紫煙と、揚げ物の油臭さが、彼の発する熱気で対流を起こしている。

 私は向かいの席に沈み込むように座った。 パイプ椅子が冷たい。 さっきまでベンチで感じていた「王の座り心地」は消え失せ、今はただの安っぽい金属とビニールが、私の尻を冷徹に支えている。

「……帰りたいんだが」 喉の奥から絞り出した声は、換気扇の轟音にかき消された。

 うるさい。 とにかく、うるさい。

 周囲のテーブルでは、新歓コンパの残骸とおぼしき集団が、猿のような奇声を上げている。 手を叩く音。グラスが割れる音。意味のないコール。

 鼓膜が物理的に震え、脳髄が共振する。 不快指数が限界値を超え、こめかみの血管がドクドクと警報を鳴らす。

 私は無意識に、親指の爪の付け根を強く押し込んだ。 痛みによる、入力感度の調整。

 静かにしろ。 私の世界に、ノイズを入れるな。

 念じる。 強く。

 フッ。

 世界から、高音域が消失(ロスト)した。

 隣の席の笑い声が、急激に遠のく。 まるで分厚いアクリル板を何枚も隔てたように、あるいは水深十メートルの底から水面を見上げているように、音の輪郭がぼやけ、意味を持たない振動(バイブレーション)へと変わる。

 快適だ。 私の脳が、不要な周波数を自動的に遮断(カット)したのだ。

 これが正しい。 世界は、私が観測したいものだけで構成されていればいい。

「――で、お前、自覚あるんか?」

 鋭利な音が、静寂を切り裂いて刺さった。

 ビクリと肩が跳ねる。 目の前を見る。 お猪口(ちょこ)を煽る早川の顔が、茹でた蛸のように赤く膨張している。

 彼の声だけが、私のフィルタを貫通してくる。 いや、彼自身が持つ「圧倒的な質量」が、私のささやかな抵抗(能力)を物理的に押し潰している。

「何の話だ」 「尾行や。ストーカーや。お前がやっとるのは、犯罪一歩手前やぞ」

 ドン。

 早川が空になった徳利をテーブルに置く。 その重い音が、私の心臓を直接叩く。

 犯罪。 手垢のついた、安っぽい単語。 だが、早川の口から放たれると、それは鉄球のような重量を持って私の上に落下してくる。

「違う。私はただ、見守っているだけだ」 「それをストーカー言うんや。アホか」

 一刀両断。 反論の余地を与えない、暴力的な正論。

 運ばれてきた熱燗を、私は手酌で注ぐ。 トクトクという液体が注がれる音が、妙にクリアに響く。

 口に含む。 安い酒特有の、鼻を突くアルコール臭。 舌が痺れ、喉の粘膜(ねんまく)が焼けるように熱くなる。

 本来なら顔をしかめる味だ。 だが、今の私には、この痛みが心地よい。 肺の裏側まで熱が浸透し、早川の言葉によって生じた冷たい亀裂を、無理やり塞いでいく。

「好きなら好きって言えや。コソコソすんな」

 早川が千枚漬けを齧る。 カリッ、という小気味良い音が、私の神経を逆撫でする。

 言うわけがない。 言葉にした瞬間、この高尚な観測は、ただの「発情」に堕ちる。 そんなことも分からないのか、この鈍感(ニブ)い肉塊は。

 私は視線を逸らす。 壁のシミが、人の顔のように見えた。 油汚れで黒ずんだその顔は、今の私を嘲笑っているように歪んでいる。

「……明日や」 「あ?」 「明日になれば、全て解決する」

 私は酒を一気に飲み干した。 胃の中で、熱い塊が爆発する。

 その熱に浮かされながら、私はまだ気づいていなかった。 この薄汚れた居酒屋の床に、すでに私の足が絡め取られ、逃げ場を失っていることに。

 店内の照明が、チカチカと不規則に明滅している。 まるで、これからの私の運命を暗示するように、不安定に揺れていた。

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