――第 3 幕 現実からの侵入者と消えた幻影――
時計の針が重なる。その瞬間、世界から雑音が濾過された。
闇の向こうから、一台の自転車が現れる。タイヤがアスファルトを噛む、チリチリという微細な回転音だけが、真空の空間を滑るように近づいてくる。
来た。私の「特異点」。
街灯の円錐形の中に、彼女が飛び込む。一瞬のフラッシュ。黒い髪が夜風に煽られ、生き物のように膨れ上がる。
オレンジ色のマウンテンバイク。その色は、冬の寒色系の景色の中で、そこだけフィルムが焼け焦げたような強烈な熱量を放っている。
私はベンチに深く身を沈めたまま、親指の爪を強く押し込んだ。痛みによるフォーカスの調整。
視線が吸い付く。彼女の輪郭を網膜に焼き付ける。
通り過ぎる。風が動く。残り香。
冬の乾燥した空気に、安っぽい石鹸の匂いが一瞬だけ混じる。清潔で、冷たく、そして手の届かない匂い。
完璧だ。私の計算通り、世界は美しい数式のように展開し――
「奇遇やね!」
ドォン。
鼓膜が内側から破裂した。いや、物理的な衝撃波が脳幹を直接殴りつけた。
作り上げていた「真空の結界」が、粉々に砕け散る。静寂の破片がキラキラと散る幻覚が見えた。
背後からの熱気。生物的な、あまりに生物的な湿度が、私の首筋にまとわりつく。
振り返る必要はない。この暴力的な音圧と、まとわりつくような脂の臭い。
早川だ。
「こんなとこで何しとるん?……あ、まさかお前」
巨大な掌が、私の肩を鷲掴みにする。熱い。ダッフルコートの分厚い羊毛を貫通して、彼の掌の汗ばんだ熱が、私の皮膚へと侵食してくる。
不快指数が限界を突破する。胃の腑から、どす黒い感情が逆流しそうになるのを、奥歯を噛み締めて堪える。
私は視線を戻そうとした。まだだ。まだ彼女の自転車のテールランプが見えるはずだ。あの赤い光の残像を見送らなければ、このシーンは完成しない。
だが。
「またストーカーか?捕まるぞ」
視界が遮断される。目の前に現れたのは、赤く上気し、毛穴から湯気を立てている早川の巨大な顔面だった。
視界いっぱいの、現実。
彼の吐く息は白く、そして焼き鳥のタレと安酒の臭いが混じっている。その粒子の一つ一つが、私の聖域を汚染していく。
「退け」喉から空気が漏れるような音しか出ない。
「アホか。お前、目ぇ血走っとるで。鏡見てみぃ」
早川はニカっと笑った。その笑顔は、悪意がないゆえに、どんな凶器よりも深く私の自尊心を抉る。
ストーカー。その単語が持つ社会的な質量が、私をベンチ(玉座)から引きずり下ろす。
違う。私は観測者だ。世界のバグを見守る、唯一の理解者だ。犯罪者などという、手垢のついたカテゴリーに分類するな。
反論しようとして、口を開く。しかし、言葉にならない。口の中がカラカラに乾き、舌が上顎に張り付いている。
その隙に、彼女の気配は完全に消滅していた。テールランプの赤も、石鹸の香りも、夜の闇に溶けて跡形もない。
残ったのは、目の前の赤ら顔と、私の肩に食い込む湿った指の感触だけ。
「行くぞ。今日は飲むで」
有無を言わせぬ質量。早川の腕が、私の首に絡みつく。ヘッドロック。あるいは捕獲された宇宙人への連行。
抵抗できない。私の「主観的物理学」は、彼の圧倒的な「客観的質量」の前では無力だ。
引きずられる。靴底がアスファルトを擦り、情けない摩擦音を立てる。ズザ、ズザザ。
冬の星座が、頭上で冷ややかに明滅している。さっきまで私を祝福していたはずの月光は、今はただの街灯りになり下がり、薄汚れた野良犬のような私と、それを捕獲した飼い主を照らし出している。
世界が反転した。高潔な物語は終了だ。
ここからは、脂とアルコールにまみれた、泥沼の現実が始まる。




