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――第 9 幕 無人の東門とタイム・スリップ――

 ガクン。

 足裏に、硬いコンクリートの衝撃が走る。 ルームランナーのようにスライドし続けていた景色が、唐突に物理的な質量を取り戻し、私の運動エネルギーを強制停止させた。

 大学、東門。

 膝が笑っている。 大腿四頭筋が不規則に痙攣(けいれん)し、自分の体重を支えるだけで精一杯だ。 肺が焼けつくように熱い。喉の奥から、鉄錆と血の味がする。

「ふゥ、いい汗かいたな」

 隣から、場違いに爽やかな声が落ちてきた。 久野先生だ。 彼は首に巻いたタオルで顔を拭い、満足げに呼気を吐いている。 その全身からは、真冬の乾燥した大気の中で、白い湯気がもうもうと立ち昇っている。

 不快な湿度。 生き物としての代謝機能が高すぎる。

 私は荒い息を整えながら、周囲を見渡した。

 ……いない。

 誰もいない。 広大なコンクリートの広場には、私と、湯気を立てる肉塊(先生)しか存在しない。

 風が吹く。 カサカサ、カサカサ。 乾いたアスファルトの上を、茶色く変色した枯れ葉が一枚、擦れる音を立てて転がっていく。

 その音が、鼓膜に痛いほど響く。

 おかしい。 私の体内時計では、まだ約束の時間の十分前のはずだ。 あの永遠に続くかと思われたジョギングは、体感では数分間の出来事だった。

 左手首を返す。 腕時計のガラス防風が、冷ややかな冬の日差しを反射して光る。

 視線が凍りついた。

 長針と短針が形成する角度。 それは、私の認識とは決定的にズレた位置で、物理的に固定されている。

 十時、三十分。

 三十分? 三十分も、世界が進んでいる?

 呼吸が止まる。 心臓が肋骨を裏側から強く叩く。

 故障だ。 この時計が狂っているのだ。 あるいは、さっきのジョギング中に、私が強力な重力場に捕らわれ、時間の流れが歪んだのか。

 世界が、私を置いていった。

 背筋に、冷たいものが走る。 汗が冷え、濡れた下着が皮膚に張り付く不快感。 体温が急速に奪われていく。

「おや、誰もいないな」

 先生がキョロキョロと辺りを見回す。 その能天気な動作の一つ一つが、私の神経を紙やすりで削る。

「みんな、先に行っちゃったのかな? 若いねぇ」

 彼の言葉は、悪意がないゆえに、鋭利な刃物となって私の自尊心を切り裂く。 遅刻。 置いてけぼり。 「主役は遅れてやってくる」という私の脚本は、「脇役は忘れ去られる」という冷徹な現実に書き換えられた。

 視界が歪む。 遠くの方から、楽しげな笑い声の残響が聞こえる気がする。 だが、そこには透明な防壁(バリア)があり、どれだけ手を伸ばしても、決して触れることはできない。

 私は、世界から弾き出された異物だ。

「……仕方ない」

 先生が、私の肩をポンと叩く。 熱い。 掌の熱量と湿り気が、ダッフルコート越しに侵入してくる。

「飯でも行くか。奢るよ」

 拒否権はない。 その提案は、慈悲ではなく、敗残者への「拘束延長」の宣告だ。

 胃の()が重くなる。 朝、完璧な芸術品として焼き上げた「黄金の玉子焼き」が、カバンの底でゴトリと位置を変えた。

 出せない。 もはや、それを披露する舞台は、この世界のどこにも存在しない。

 私は無言で頷くしかなかった。 東門の時計塔が、カチリと音を立てて分針を進める。 その無機質な音は、私という存在がこの世界にとって不要なノイズであることを、淡々と証明していた。

「きつねうどんでいいかな?」

 先生の笑顔が、視界いっぱいに広がる。 私の絶望など露知らず、彼は白く濁った息を吐きながら、学食の方角へと歩き出した。

 足が重い。 靴底に、鉛の板が埋め込まれているようだ。 私はズルズルと足を引きずりながら、その後ろ姿を追う。

 空は突き抜けるように青く、それが余計に、私の網膜(もうまく)を痛めつけた。

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