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――第 10 幕 冷めた味噌汁と文字化けする愚痴――

 プラスチックの箸が、ふやけた麺を持ち上げる。

 学食特有の、煮詰まった醤油と出汁の臭い。 換気扇の能力を超えた湿度が、天井の低い空間に脂ぎった雲のように停滞している。

 土曜の昼前。 ガランとした巨大なホールには、私と、向かいに座る久野先生しかいない。

 頭上の蛍光灯が、ジジジ……と虫の羽音のようなノイズを発しながら、不規則に明滅(フリッカー)している。 その点滅に合わせて、テーブルの上のきつねうどんが、青白く変色したり、元のどす黒い茶色に戻ったりを繰り返している。

 食欲など、とっくに壊死(えし)している。

 だが、私は麺を口に運んだ。 咀嚼する。 味がない。 ゴムを噛んでいるような弾力だけが、歯茎に不快な振動を伝える。

「それでな、あの子が最近、口を利いてくれないんだ」

 正面から、熱波が押し寄せる。 先生だ。 彼は自分の分の天ぷら蕎麦には手を付けず、虚空を見つめながら独り言のように喋り続けている。

 まだ湯気が立っている。 彼にまとわりつく白い蒸気が、私の領域(半径一メートル)を侵食し、眼鏡のレンズを白く曇らせる。

「パパ、洗濯物分けろって。酷いと思わないか?」

 言葉が、重い。 音声データとしてではなく、鉛の散弾のように物理的な質量を持って、私の顔面に降り注いでいる。

 貧乏ゆすりが止まらない。 右足の踵が、コンクリートの床をタタタタタと高速で叩く。 制御不能な筋肉の痙攣(けいれん)

 帰りたかった。 今すぐここを出て、本来の目的地へ走らなければならない。 時間は残酷に過ぎ去り、私の「遅刻」は確定事項として履歴に残ろうとしている。

 だというのに。

「昔は、パパのお嫁さんになるって言ってたのになぁ」

 先生の言葉が、粘着質なタールのように鼓膜にへばりつく。 娘の話。 アンナ先輩のことだ。

 興味がない。 他人の家庭の腐敗など、私の知ったことではない。

 私は箸を置き、親指の爪の付け根を強く押し込んだ。 痛みによる強制シャットダウン。

 聞くな。 遮断しろ。

 念じる。 脳内のミキサーのつまみを、左いっぱいに回す。

 ザザッ。

 世界が一瞬、砂嵐のように歪んだ。

 先生の口は動いている。 だが、そこから発せられる音声は、意味を持たない信号音(ノイズ)へと変換された。

「……ガ……ザザ……娘が……ピー……」

 成功だ。 言語野が、不要な情報の処理を拒絶したのだ。

 しかし。

 ボチャン。

 奇妙な水音がした。 視線を落とす。

 私のうどんの汁の中に、黒い塊が浮いている。

「……?」

 揚げ玉ではない。 コールタールを固めたような、不定形の黒い異物(オブジェクト)

 ボチャン、ボチャン。

 さらに落ちてくる。 先生の口から。

 彼が「娘」「彼氏」「うざい」と口にするたびに、その単語が物理的な固形物となって吐き出され、放物線を描いて私の丼の中に落下している。

 黒い飛沫(しぶき)が跳ねる。 顔にかかる。 熱い。 いや、冷たい。 他人の不幸の味がする。

 幻覚だ。 疲労と焦燥が、視覚情報にバグを引き起こしている。

 だが、胃の腑から酸っぱい液がこみ上げてくる感覚はリアルだ。 嘔吐(おうと)中枢が警報を鳴らす。

 これ以上、この「汚染された食事」を摂取することは不可能だ。

 ガタッ。

 私は椅子を蹴るようにして立ち上がった。 大きな音が、無人の学食に響き渡る。

 先生が驚いたようにこちらを見る。 その口元には、まだ黒いシミのような言葉の残滓(ざんし)が付着している(ように見える)。

「……す、すまない。引き止めすぎたかな」

 彼は時計を見た。 そして、何事もなかったかのような爽やかな笑顔――私を追い詰めたあの笑顔――で立ち上がった。

「僕もそろそろ行かないと。……あの子が待ってるかもしれないからね」

 彼は私の返事も待たず、トレイを持って返却口へと歩き出した。 その背中は、またしても湯気を立てている。 懲りない男だ。 拒絶されていることに気づかない、幸福な鈍感さ。

 私は残された。 目の前には、冷めきって油膜の張ったうどん。 その中には、溶け出した黒い言葉たちが、ドロドロと渦を巻いて沈殿している。

「……行かなきゃ」

 喉が張り付いて、声が出ない。 私は逃げるように出口へ向かった。

 自動ドアが開く。 外の空気が、肺を刺すように冷たい。

 だが、まだ終わっていない。 ここからが、本当の地獄(遅刻の言い訳)の始まりだ。

 遠くから、吹奏楽部の練習する音が聞こえる。 不協和音。 それが、これからの私の運命を暗示するファンファーレのように響いていた。


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