――第 11 幕 停止した世界と金属バケツ――
学食の自動ドアを背にする。 肺に満ちた生温かい出汁の臭気を吐き出し、代わりに冬の乾燥した大気を吸い込む。
気道が冷えて収縮する。 喉の粘膜が張り付く感覚。
走る。 目的地はカラオケボックス「フルーツクラブ」。 集合時間までは、あと数分しかない。 もはや物理的な距離を埋めることは不可能だが、私の脳内では「遅れて登場する主役」という脚本への書き換えが完了している。
アスファルトを蹴る。 スニーカーの底が地面を擦る、ザッ、ザッ、という摩擦音だけが頼りだ。
遠くから、吹奏楽部のチューニング音が聞こえる。 不協和音。 それが私の焦燥感を煽るBGMとして機能している。
「――そこの貴方!」
鋭利な音が、背後から鼓膜を刺した。
無視する。 ただの環境音だ。私に向けられたものではない。 そう定義して、足を加速させる。
「待ちなさいよ!」
ドォン。
物理的な衝撃波が、後頭部を直撃した。 いや、それは音波ではない。 私の脳幹を直接ハッキングする、強制停止コマンドだ。
その瞬間。 世界が凍結した。
風が止む。 舞い上がっていた砂埃が、空中で静止する。 遠くの吹奏楽部の音が、テープを切ったようにプツリと消滅する。 歩いていた学生たちの足が、地面から浮いたまま固まっている。
真空。
私の「主観的物理学」が、過剰防衛反応を起こしたのだ。 都合の悪い情報を遮断するために、世界の時間を停止させた。
完璧な静寂。 この静止画の中で、動けるのは私だけ――
カツン、カツン。
硬質な音が響く。 私の背後から、誰かが歩いてくる。 この停止した世界において、私以外の「動体」が存在している。
戦慄が背筋を駆け上がる。 ゆっくりと振り返る。
そこに「それ」はいた。
キャスケットを目深に被った、小柄な女。 久野アンナ。
異常だ。 背景の木々や校舎が、冬の日差しの下でぼんやりと霞んでいるのに対し、彼女の輪郭だけが、カッターナイフで切り抜いたように鋭く、鮮明すぎる。
過剰解像度。
彼女の存在だけが、この世界の画素数を超越している。 その圧倒的な質量が、私の網膜を物理的に圧迫する。
「……逃げる気?」
彼女が口を開く。 その声は、空気の振動ではない。 脳の奥にある神経を直接指先で弾くような、不快な高周波ノイズ。
モスキート音。 あるいは、黒板を爪で引っ掻く音。
私の三半規管が悲鳴を上げ、平衡感覚が狂う。 逃げなければならない。 この「異物」に関われば、私の物語はジャンルごと書き換えられてしまう。
私は強引に前を向き、硬直した筋肉に命令を送る。 動け。 ここから離脱しろ。
一歩を踏み出そうとした、その時。
ガランッ!
凄まじい金属音が、静寂の世界を粉々に砕いた。
私の意識が、強制的に現実に引き戻される。 視線を向ける。
園芸部の手押し車から転がり落ちた、ブリキのバケツ。 それがコンクリートの斜面を、不規則な回転運動を繰り返しながら落ちていく。
ガラガラガラガラ……!
乾いた、安っぽい、そして暴力的なほどに大きな騒音。 その音の波紋が広がるたびに、停止していた世界に色が戻り、風が吹き、学生たちが動き出す。
私の「魔法」が解けたのではない。 たかがバケツ一つの物理的な質量によって、私の聖域が蹂躙されたのだ。
「捕まえた」
手首に、冷たい感触。 万力のような握力。
アンナの細い指が、私の肉に食い込んでいる。 痛い。 骨がきしむほどの強さ。
「離してくれ」 「ダメよ。久野先生から聞いたわ」
彼女の眼鏡の奥の瞳が、爬虫類のように冷たく光る。 逃げ場はない。
「アンタ、また変なこと企んでるでしょ」
図星だ。 だが、言葉にする間もなく、彼女は私の腕を引いた。 逆らえない。 彼女の背後には、社会通念や常識といった「巨大な質量」が味方しており、個人のエゴなどという軽い存在は、ひとたまりもなく吹き飛ばされる。
ズルズルと引きずられる。 靴底が地面を擦り、情けない音を立てる。
バケツはまだ転がっている。 ガラガラ、ガラガラ。 その間抜けな音が、私の敗北を嘲笑うファンファーレのように、いつまでも耳に残っていた。




