――第 52 幕 観測者の問いと美学の放棄――
熱い。
皮膚が弾ける音がする。 オレンジ色の粒子が、吹雪のように吹き荒れている。 それは光ではない。質量を持った高エネルギー体だ。 頬に触れるたびに、ジュッという微かな音と共に表皮を焦がし、神経を直接焼いていく。
痛い。 だが、その痛みだけが、目の前の「それ」が幻覚ではない証拠だ。
ノイズの渦。 その中心で、彼女の輪郭が明滅している。 白い肌、黒い髪、赤い眼鏡。 断片的なテクスチャが、激しく点滅しながら収束しようとしている。
手を伸ばす。 指先が震える。 あと数センチ。その距離が、永遠のように遠い。
「御仁」
風切り音。 真空の裂け目が唸る「ゴーッ」という轟音を切り裂いて、その声は届いた。
ジン。 彼はカメラを下ろしていた。 レンズの奥。 常に白く光っていた丸眼鏡の反射光が、今は警告色のような赤みを帯びている。
「其処で止めるがよい」
命令ではない。 慈悲を含んだ、冷徹な提案。
「此処で手を離せば、彼女は永遠になる」
ジンが一歩、こちらへ近づく。 彼の周囲だけ、粒子の嵐が避けて通る。 物理法則が、彼を「観測者」として特別扱いしている。
「傷つくこともなく、老いることもなく、汚れることもない。……美しい『青春の幻影』として、御仁の記憶の中で結晶化する」
甘美な毒。 彼の言葉は、私の脳髄に直接染み込んでくる麻酔だ。
そうだ。 ここで諦めれば、私は「悲劇の主人公」になれる。 失われた恋を胸に抱き、少しだけ憂鬱で、美しい人生を送ることができる。 誰も傷つかない。 汗もかかない。 泥にもまみれない。
「だが、引きずり降ろせば」
ジンの声が低くなる。
「彼女はまた『生身の人間』に戻る。……排泄し、垢にまみれ、醜く老いさらばえ、そしてまた、御仁を傷つけるかもしれぬぞ」
嘔吐感。
胃液が逆流する。 想像させられた。 彼女が年を取り、肌が弛み、生活に疲れ、私を罵倒する未来を。 あの「汚い字」で、私への呪詛を書き連ねる日常を。
「それでも、あのノイズを欲するか?」
正論。 美学的には、彼の言うことが正しい。 物語として完成させるなら、ここで終わるのが一番美しい。
だが。
ドクン。
心臓が、肋骨を裏側から蹴り上げた。 生理的な拒絶。 私の細胞のすべてが、その「綺麗な結末」に対して、猛烈なアレルギーを起こしている。
ふざけるな。 誰が、そんな標本になりたいと言った。
私は、火傷でただれた右手を握りしめた。 膿と血が混ざり合い、ヌルリとした感触が掌に残る。
汚い。 臭い。 痛い。
だからこそ、リアルだ。
「……うるさい」
喉の奥から、鉄錆のような声が出た。 肺の中の空気を、全て吐き出す。
「思い出なんて、クソ食らえだ」
私は顔を上げる。 ジンの眼鏡に、煤と脂汗で汚れた私の顔が映っている。 最高に醜い。
「俺は、綺麗な幻影が欲しいんじゃない」
一歩、踏み出す。 地面の砂利が、高熱で溶けて靴底に張り付く。
「この『訳の分からない生き物』と……もっと、揉めたいんだよ」
それは論理ではない。 ただの我執。 私の物語を、勝手に「感動的な悲劇」としてエンドロールさせるな。 泥沼でいい。地獄でいい。 あの冷たい手と、意味不明な言動と、汚い字にまみれて、もっと苦しみたいんだ。
ジンの表情が、止まる。 完璧だった仮面に、微細な亀裂が入る。
数秒の沈黙。 粒子の爆ぜる音だけが、パチパチと響く。
「……ハ」
乾いた音が漏れた。 ジンが笑った。 口の端を吊り上げ、三日月のように歪ませて。
「狂っておる」
軽蔑か。 いや。
「だが、最高の被写体でござる」
カシャリ。
彼は再びカメラを構えた。 ファインダーを覗く。 その動作は、介入(説得)の放棄であり、観測への回帰だ。
交渉決裂。 そして、共犯契約の更新。
「撮っておけ」
私は、目の前のノイズの渦へ向き直った。
「これが、俺たちの『汚れた続き』だ」
熱波が増す。 ジンのシャッター音が、嵐の中で規則正しいリズムを刻み始める。 それは、私たちが「後戻りできない領域」へ踏み込んだことを告げる、断頭台のカウントダウンのように聞こえた。




