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――第 51 幕 五次会の再現と強制的な上書き――

 風が、止まっている。

 先ほどまで、呼吸を阻害するほど吹き荒れていた突風が、このブランコを中心とした半径数メートル以内で、物理的に遮断(カット)されている。 完全な真空(ヴォイド)。 音がない。 遠くの街の環境音も、自分の心音さえも、この空間の密度に押し潰されて聞こえない。

 目の前。 白いブランコが、闇の中で発光しているように見える。 座面の上には、何もない。 ただ、背景のフェンスが陽炎のように歪んで透けて見える、ゼリー状の欠損(エラー)だけがそこに在る。

「……始めるぞ」

 喉の奥で呟く。声は空気中を伝播せず、骨伝導で頭蓋骨に響く。

 右手に握りしめた、歪んだアルミニウムの感触。 コーンポタージュの缶。 第24幕で無意識に入手し、ずっとポケットの中で体温を吸い続けてきた、赤い円筒形。

 熱い。 人肌などではない。 缶の表面温度は、内部の液体が沸騰しているかのように異常上昇している。 指の指紋が焼ける臭い。タンパク質の変性臭。

 だが、離さない。 この痛みこそが、彼女をこの世界に繋ぎ止めるための溶接痕(ビード)だ。

「御仁」

 背後。 ジンの声が、ノイズ混じりの無線のように遠く聞こえる。 彼はカメラを構えている。 そのレンズが、この事象の地平線を冷徹に捉えている。

 私は、誰もいないブランコへ向かって、缶を突き出した。

「五次会だ」

 宣言。 それは誰への言葉でもない。 このふざけた世界システム(OS)への、不正な書き込み(オーバーライト)命令。

「約束通り、連れて行ってやる」

 右手の指を、プルタブにかける。 震えはない。 あるのは、回路が焼き切れる寸前の、過剰な電圧だけ。

 指に力を込める。

 プシュッ!

 ガスが抜ける鋭い音が、静寂の膜を切り裂いた。 甘ったるいコーンの香料。 そして、鼻をつく鉄錆の臭い。

 トリガーが引かれた。

 バヂヂッ……!

 空間が、悲鳴を上げる。 ブランコの座面を中心に、赤黒いスパークが走る。

 見ろ。 欠損(エラー)が埋まっていく。

 何もない虚空から、火花のような粒子が噴き出している。 色は、鮮烈なオレンジ。 あの夜、私の網膜を焼いたマウンテンバイクの色。 第26幕で手渡した、スープ缶のパッケージの色。

 粒子が渦を巻く。 高速で回転し、摩擦熱で周囲の空気を歪ませながら、一つの形状へと収束していく。

 髪。 肩。 細い腕。

 輪郭が描かれる。 だが、まだ不安定だ。 映像信号が乱れたテレビ画面のように、激しくノイズが走り、実体化を拒んでいる。

 世界が拒絶しているのだ。 「そのデータは存在しない」と、修正プログラムが働いている。

「……ふざけるな」

 私は一歩、踏み込んだ。 地面の砂利が、高熱で溶けて靴底に張り付く。

 データがない? 知ったことか。 俺が覚えている。 あの不器用な文字を。 冷たい手の感触を。 五次会へ行きたいと叫んだ、あの声を。

 俺の脳内にある記憶キャッシュを、すべてこの空間に出力(ダンプ)する。

「そこにいるんだろ!」

 私は、ノイズの渦の中に、左手を突っ込んだ。

 ジュッ!

 激痛。 皮膚が焼ける音。 溶鉱炉に手を入れたような熱量が、神経を食い破って脳髄へ到達する。

 痛い。 痛い。 最高だ。

 指先が、何かに触れた。

 実体(ソリッド)

 柔らかく、そして火傷しそうなほど熱い、肉の感触。

「……ッ、ぁ」

 掴んだ。 細い手首。 そこに脈打つ血管の振動が、私の掌を通じて伝わってくる。

 ドクン、ドクン。

 心音。 バグではない。 これは、生きている人間の、生々しい鼓動(ビート)だ。

「捕まえた」

 私は、その腕を全力で引き寄せた。 世界の修正力(重力)が、ミシミシと音を立てて抵抗する。 だが、私のエゴ(熱量)が勝る。

 バリバリバリッ!

 空間が割れる音がした。 オレンジ色の粒子が爆発的に拡散し、視界を埋め尽くす。

 その光の中で、私は見た。 ノイズまみれの顔。 赤い縁の眼鏡。 そして、恐怖と安堵がない交ぜになった、あの瞳を。

 世界が書き換わる。 正常な夜明け前ではなく、私たちが望んだ「終わらない夜」の続きへと、物理法則がねじ曲がっていく。

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