――第 50 幕 特異点のブランコと座標の消失――
ジャリ、ジャリ。
足裏から伝わる砂利の感触が、脳髄に直接響く。 世界から音が消えている。
完全静寂。
先ほどまで鼓膜を叩いていた風の音も、遠くの街の環境音も、正門をくぐった瞬間にプツリと断線した。 ここは真空の実験室だ。 私の呼吸音と、砂利を踏みしめる音だけが、過剰なデシベルで反響している。
校庭の隅。 そこにある、「それ」を見つけた。
ブランコ。
闇の中。 月明かりなどないはずなのに、その一角だけが舞台照明を浴びたように白く浮き上がっている。
「……はぁ、はぁ」
肺が凍りついている。 白い息が、口元から漏れては、空気に溶けずに漂っている。
近づく。 足が重い。 第39幕で感じた重力アレルギーが悪化している。 地面が泥沼のように靴底を吸い込み、「見るな」と警告している。
だが、見る。
そこには、誰もいない。
いや。 ただの不在ではない。
「……ッ、ぐ」
嘔吐中枢が反応する。 胃液が逆流し、食道を焼く。
視界がおかしい。 ブランコの左側の座面。 その周辺の空間が、陽炎のように歪み、背景のフェンスが半透明に透けて見えている。
欠損。
空間データが、物理的に切り取られている。 ここに「誰か」がいたはずの座標。 その情報だけが、修正液で乱暴に塗りつぶされたように削除され、世界のテクスチャがバグを起こしている。
「……座標が、ありませぬな」
背後から、ジンの声。 乾いた、感情のない観測報告。
「削除済みでござる。これでは、呼び戻す以前の問題。アクセスする先が存在しない」
論理的な詰み(チェックメイト)。 宛先のない手紙は届かない。 存在しないURLは開かない。
ブランコの鎖が、風もないのに揺れている。 キィ……キィ……。 錆びついた金属音が、誰かの咽び泣きのように鼓膜を擦る。
寒い。 気温のせいではない。 この「空洞」から漏れ出す絶対零度の虚無が、皮膚の表面温度を奪っていく。
私はポケットに手を突っ込んだ。 指先に触れる、硬く、歪んだ金属の感触。
コーンポタージュの缶。
第24幕で手に入れ、第26幕で彼女に手渡したはずの、赤い円筒形。 なぜか今、私のポケットの中で増殖し、ひしゃげている。
掴む。 熱い。 外気の冷たさとは対照的に、この缶だけが、人肌よりも少し高い、不快な熱量を帯びている。
「……データがないなら」
私は缶を握りしめた。 潰れたアルミの角が、掌の肉に食い込む。
「俺が、上書きする」
論理はいらない。 世界のサーバーが「いない」と定義するなら、私の脳内にある「いた」という物理的な記憶(熱と痛み)で、世界の方を書き換えればいい。
プシュ。
缶の飲み口を開ける音が、静寂の校庭に銃声のように轟いた。 甘ったるいコーンの匂い。 そして、微かな鉄錆(コイン)の臭い。
それがトリガーだ。 私は、虚無の座席へ向かって、熱を持った缶を突き出した。




