――第 49 幕 正常性の決壊とノイズ混じりの涙――
肺の肺胞が、凍りついて音を立てる。 パキ、パキパキ。
吸い込むたびに、気管支の内壁に微細な氷の結晶が付着し、酸素の取り込みを物理的に阻害する。 夜明け直前。 世界が最も青く、そして生物の生存に適さない時間帯。
私は、錆びついた自転車を降りた。 両足が地面に着く。 膝が笑っている。大腿四頭筋が断裂寸前の悲鳴を上げ、乳酸の熱がズボンの生地越しに放出されている。
目の前。 大学の正門。 その巨大な鉄柵の前に、「それ」は立っていた。
久野アンナ。
彼女の輪郭だけが、この薄暗いブルーグレーの空間において、異常なほど鮮明だ。 高解像度。 背景の並木や校舎が、まだ夜の闇に溶けて曖昧なテクスチャのままであるのに対し、彼女のキャスケットの繊維、コートのボタンの光沢、白い肌の毛穴までもが、過剰なピント合わせによって視界に焼き付く。
彼女は、世界の「正しさ」そのものだ。 だからこそ、バグだらけの私にとって、直視するだけで網膜を焼く光源となる。
「……行かないで」
声。 第40幕で浴びせられた、鼓膜を突き破るような高周波の命令ではない。 空気が漏れるような、湿った懇願。
「そっちは、戻れなくなる」
彼女は両手を広げている。 その指先が震えている。 寒さのせいではない。彼女の演算能力(常識)を超えた領域へ踏み込もうとしている私に対する、生物学的な拒絶と、理解不能な恐怖。
私は一歩、足を踏み出す。 ジャリ。 霜柱を踏み砕く音が、静寂の中で銃声のように響く。
「就職はどうするのよ!」
アンナが叫ぶ。 その声量が、物理的な音圧となって私の胸板を叩く。
「親が泣くわよ! 社会に出られないわよ! そんなことして何になるの!?」
正論。 完璧な論理。 一ミリの瑕疵もない、健全な社会人の主張。
だが。
ザザッ……ピ……。
彼女の言葉の端々が、電子的なノイズに変換されている。
「現実を見な……ザザッ……さい……ガガッ……」
聞こえない。 意味が入ってこない。 彼女の「正しさ」は、こちらの世界(異界)のOSとは互換性がないのだ。 再生できないファイル形式。
私は、彼女との距離を詰める。 あと三メートル。 彼女の瞳孔が開いている。 そこに映っているのは、かつての「可愛い後輩」ではない。 泥と錆にまみれ、眼球の毛細血管が切れ、正気を手放した「怪物」だ。
「……先輩」
私の喉から漏れた音は、自分でも驚くほど低く、ガラガラに枯れていた。
「俺は、あっち側で生きることにしたんだ」
宣言。 それは決意ではない。 ただの、システム設定の変更通知。
私はもう、清潔なオフィスで働き、週末に映画を見て、常識的な家庭を築くという「幸せな未来」の権利を放棄する。 その代わりに、あの訳の分からない生き物と、終わらない泥沼を這いずり回る権利を行使する。
「あ、あぁ……」
アンナの顔が歪む。 恐怖か、憐れみか。 彼女の美しい顔立ちが、内側からの圧力に耐えきれず、ぐしゃりと崩れる。
私は手を伸ばした。 彼女の肩へ。
触れる。 硬質な感触はない。 拒絶のバリケードも、ガラスの壁もない。
ただ、糸が切れた操り人形のように、彼女の身体が沈んだ。
崩れ落ちる。 アスファルトの上へ。 膝をつき、両手をつき、彼女は地面に蹲った。
「う、うぅ……」
嗚咽。 壊れたラジオが、周波数を合わせられずに発するホワイトノイズのような泣き声。
そして、見た。
彼女の目から溢れ出す液体。 それは透明な涙ではなかった。
黒。
ドロリとした、粘着質の黒いインク。 あるいは、システムエラーによって吐き出された、行き場のないデータの残骸。
ポタ、ポタ。
黒い雫が、白い霜の降りたアスファルトに落ちる。 ジュッ。 微かな音を立てて、地面を汚染していく。
美しい「正しさ」が、私の「狂気」に触れたことで汚され、物理的に壊死したのだ。
「……さよなら」
私は、その黒い染みを見下ろして呟いた。 謝罪はない。 後悔もない。 あるのは、邪魔なオブジェクトが排除されたという、冷徹な事実確認だけ。
私は自転車を押し、彼女の横を通り過ぎる。 タイヤが、黒い涙を踏んで回転する。 泥とインクが混ざり合い、私の進む道に、消えない轍を描いていく。
背後で、ノイズ混じりの嗚咽だけが響いている。 だが、その音もすぐに遠ざかり、風の音にかき消された。
前を見る。 校舎のシルエット。 その奥にある、校庭の闇。
そこが終点だ。 私は、冷え切ったハンドルを握り直し、夜明け前の最も深い闇へと足を踏み入れた。




