――第 48 幕 世界の抗体反応とバグの進軍――
風が、質量を持って殴りつけてくる。
ビルから一歩踏み出した瞬間、目に見えない巨大な壁に衝突した。 ごうごうと唸る大気。 台風ではない。風向きが、物理的におかしい。 東へ向こうとすれば東から、西へ向こうとすれば西から。 360度、私が進もうとするベクトルに対してのみ、正確に「逆風」が発生している。
抗体反応。
都市が、私を拒絶している。 この空間という有機体が、私というウイルスを排除しようと、物理的な免疫系を作動させているのだ。
「ぐ、ぅ……!」
息ができない。 酸素が風圧で押し戻され、肺が真空ポンプのようにひしゃげる。
目の前。 大通り。
異常だ。 視界に映るすべての信号機が、「赤」で固定されている。
数百個の赤色LED。 それらが一斉に、充血した無数の目玉となって私を睨みつけている。 青に変わる気配はない。 この道路交通法は、私の進行を永遠に許可しない。
「御仁! 世界が全力で止めに来ておりますぞ!」
背後でジンの叫び声。 風にかき消されそうになるが、他的シャッターを切る音だけは、乾いた銃声のように耳元で弾ける。
歩けない。 重力係数が狂っている。 アスファルトが泥沼のように粘りつき、靴底を離そうとしない。
このままでは、夜が明ける。 正常な朝が来て、世界がアップデートされれば、あの「バグった隙間」は埋められてしまう。
移動手段が必要だ。 論理的な徒歩では、この拒絶を突破できない。
視線が彷徨う。 ガードレールの脇。 不法投棄されたゴミの山の中に、それは埋もれていた。
自転車。 泥と埃にまみれた、持ち主不明の銀色。 前輪が歪んでいる。チェーンは赤黒く錆びついている。
「……動け」
私はそれを引きずり出した。 重い。 鉄塊だ。
跨がる。 サドルが冷たく、股間を突き上げる。
ペダルに足をかける。 踏み込む。
ギィィィッ!
金属が悲鳴を上げた。 錆びついたチェーンが、スプロケットに噛み込み、嫌々ながら回転を始める。
進む。 風圧が、コンクリートの壁となって立ちはだかる。
「どけッ!」
喉から血の味がするほどの咆哮。 ペダルを踏む足の筋肉が、ブチブチと繊維の断裂する音を立てる。
私は、赤信号の交差点へ突っ込んだ。
止まらない。 止まってたまるか。 世界が「止まれ」と言うなら、俺はそのルールごと粉砕する。
キーン。
耳鳴り。 交差点の中央に差し掛かった瞬間、頭上の信号機が異常な光量を放った。
バヂィッ!!
ショート音。 赤いLEDが弾け飛ぶ。 火花が散り、硝煙の臭いが鼻を突く。
私が通過する直前、信号機が過負荷で焼き切れたのだ。 「赤」が死に、強制的に「無色(進行可)」のこじ開けられた道ができる。
次だ。 次の交差点も赤。
「開けろォォッ!」
クランクを回す。 チェーンがスプロケットを削り、鉄粉を撒き散らす。
ババババッ!
街路灯が、私の進行に合わせて次々と爆ぜていく。 ガラス片が雨のように降り注ぐ。 頬をかすめる。痛い。 だが、その痛みが「俺は進んでいる」という唯一の証明だ。
後ろを見る余裕はない。 だが、気配でわかる。 ジンが、この崩壊する都市風景を、狂ったように撮影しながらついてきている。
大学まで、あと少し。 最後の砦。
風が強まる。 もはや空気ではない。 液状化した大気が、私の顔面を変形させるほどの圧力で押し寄せてくる。
涙が勝手に流れる。 悲しみではない。 風圧で涙腺が物理的に刺激され、排泄されているだけの生理現象だ。
ペダルが重い。 錆びたチェーンが、今にも千切れそうだ。 ギリ、ギリ、ギリ……。
持て。 あと数分だけでいい。 この鉄屑よ、俺の熱量に耐えろ。
私は、破裂していく光の回廊を、泥と錆にまみれた弾丸となって突き進んだ。 行く手には、夜明け前の最も深い闇に沈んだ、大学の正門が黒い口を開けて待っていた。




