――第 47 幕 主観的物理学と熱を放つオレンジ――
ジュッ。
皮膚が焦げる音。 鼻腔の奥に、タンパク質の変性した臭いと、プラスチックの化学的な悪臭がこびりついている。
手のひらで、スマートフォンが死んでいる。 黒い煙が、細い糸となって立ち昇り、天井の低いコンクリートに吸い込まれていく。
痛い。 指先が炭化しそうなほど熱い。 だが、不思議と手を開く気にはなれない。 この痛みだけが、この真空のような異界における唯一の座標だ。
「……見事な最期でござる」
背後から、声。 温度のない、乾いた氷のような響き。
ジンだ。 彼は階段の踊り場に立ち、私を見下ろしている。 頭上の蛍光灯が、瀕死の羽虫のようにジジッ、ジジッ……と不規則に明滅し、彼の丸眼鏡に神経質な影を落としている。
そのレンズは、光を反射して白く濁り、奥にあるはずの瞳を隠蔽している。
「御仁。これ以上の深入りは、美しくありませぬぞ」
彼は、汚れた手すりに手を置いた。 白い指先が、赤錆と対比をなす。
「彼女は『バグ』だ。世界という巨大な演算装置が、処理しきれずに弾き出したエラー・データ。……それが削除された。ただ、それだけの物理現象でござる」
正論。 彼の口から紡がれる言葉の一つ一つが、鋭利なメスとなって私の脳髄を切り開く。
反論しようと口を開く。 だが、喉が張り付いて音が出ない。 酸素が薄い。 この男の周囲だけ、気圧が異常に低下している。
ジンは階段を一段、降りてくる。 コツン。 革靴の音が、鼓膜ではなく、骨を伝って響く。
「考えてもみられよ。消えたものは、消えたままが一番美しい」
彼は歌うように説く。
「幻影は幻影のまま。手に入らぬ青春の残滓として、この閉じた空間に保存する。……それこそが、究極の愛着ではござらんか?」
ズキン。 心臓が、冷たい手で鷲掴みにされたように収縮する。
誘惑。 それは、甘美な毒だ。 ここで諦めれば、私は「悲劇の主人公」として、この傷を愛でながら一生を終えることができる。 誰も傷つかない。 汗もかかない。 泥にもまみれない。 清潔で、静謐な、死のような安らぎ。
「助ける必要などない。引きずり戻せば、彼女はまた『生身の人間』に戻る」
ジンが私の目の前に立つ。 無臭。 彼からは、汗の臭いも、生活の澱みも一切しない。 ただ、古い紙と、現像液の薬品臭だけが漂っている。
「老い、汚れ、排泄し、そしてまた御仁を傷つけるかもしれぬ。……それでも、あのノイズを欲するか?」
嘔吐感。
胃液が逆流する。 食道が焼ける。
彼の言っていることは正しい。 論理的には、完璧だ。 だが、私の細胞の一つ一つが、その「潔癖な美学」に対して、猛烈な拒絶反応を鳴らしている。
生理的に、無理だ。
私は、火傷した指を握りしめた。 痛い。 皮が剥げ、滲んだ血が掌でベトついている。
汚い。 臭い。 痛い。
だが、この不快感こそが、私が求めていたものだ。
「……うるさい」
喉の奥から、鉄錆のような声が出た。
バシッ。
私は、私の肩に置かれようとしたジンの手を、乱暴に払いのけた。
「美しさなんて、どうでもいい」
私は顔を上げる。 ジンの眼鏡に、薄汚れた私の顔が映っている。 髪はボサボサで、目は充血し、口元には乾いた唾液がこびりついている。
醜い。 最高に、醜い。
「俺は、綺麗な思い出が欲しいんじゃない」
一歩、踏み出す。 床のタイルが、ジャリと音を立てる。
「あの訳の分からない生き物と……もっと、揉めたいんだよ」
それは論理ではない。 生存本能に近い、泥臭い我執。 私の物語を、勝手に「綺麗な悲劇」としてエンドロールさせるな。
世界が彼女を削除した? データが存在しない?
知ったことか。
私の右手が覚えている。 第26幕で手渡した、コーンスープの缶のぬるい熱。 第21幕で網膜を焼いた、あの鮮烈なオレンジ色の残像。
私の神経系が、それを「実在」として記録している。 ならば、間違っているのは私の脳ではない。 世界の方だ。
「俺が観測したものが真実だ。世界なんて、知ったことか」
ドクン。
心臓が、肋骨を内側から殴打した。 血液が沸騰する。 血管を流れる音が、轟音となって鼓膜を揺らす。
視界が変わる。 彩度の低いグレーの世界に、色が戻る。 いや、戻るのではない。 私の網膜が、世界を「オレンジ色」に塗り替えていく。
熱い。 体の芯から、物理的な熱量が噴出している。 周囲の空気が陽炎のように揺らぎ、ジンの輪郭を歪ませる。
主観的物理学。
私の「妄想」が、この場の物理法則を上書きする。
ジンの表情が、一瞬だけ止まる。 完璧だった仮面に、微細な亀裂が入る。
「……左様か」
彼は短く呟き、溜息をついた。 その呼気が、白く凍りついて消える。
「狂っておる」
軽蔑か。 いや。 彼の口元が、三日月のように歪んだ。
「だが、被写体としては……悪くない」
カシャリ。
彼が懐からカメラを取り出し、構える。 レンズの暗い瞳が、私を射抜く。
交渉決裂。 あるいは、新たな契約の成立。
蛍光灯の明滅が激しくなる。 ジジジジッ! 空間が軋む音。 建物全体が、異物の侵入(私の覚醒)を拒絶して振動を始めている。
「行くぞ」
私は、彼を押しのけるようにして階段を駆け上がった。 背後で、シャッターが切られる乾いた音がした。 それは、私たちが「後戻りできない領域」へ踏み込んだことを告げる、錆びついた安全ピンを強引に引き抜くような、起爆の合図だった。




