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――第 44 幕 真空パックされた宴と腐らない唐揚げ――

 チン。

 エレベーターの到着音が、物理的に遮断されたように響かない。 音が、空気に吸収されている。

 扉が開く。 そこには、廊下はなかった。

 いきなり、部屋がある。 壁が存在しない。 無限に続く闇の中に、床だけが切り取られたように浮いている。 その上に、ちゃぶ台と、散乱した座布団。

「……ッ」

 息を吸う。 酸素が薄い。 肺が膨らもうとして、抵抗に遭う。 ここは真空か。 いや、空気はある。だが、それは循環を止めた死水(しにみず)のように、分子レベルで停滞している。

 完全静寂(サイレント)

 空調の音も、冷蔵庫の唸りも、遠くの車の走行音もしない。 私の鼓膜が、音圧の欠如によって内側から張り詰め、キーンという生理的な耳鳴りを発生させている。

 一歩、踏み出す。 床の感触が、ヌルリとしている。 古い畳。そこに染み込んだ酒と脂が、酸化せずに表面を覆っている。

御仁ごじん。あれを」

 ジンの声だけが、直接脳内に響くようにクリアに聞こえる。 彼が指差す先。 ちゃぶ台の中央。

 大皿がある。 山盛りの唐揚げ。

 あの日。 五次会で、誰も食べきれずに残した残骸だ。

 おかしい。 一ヶ月が経過している。 常識的に考えれば、それは腐敗してドロドロに溶けているか、あるいはカピカピに干からびてカビに覆われているはずだ。

 だが。

 ツヤツヤと光っている。 揚げたての衣のキツネ色。 表面に浮いた脂が、照明もないのにギラギラと濡れた光沢を放っている。

 さらに、異常な点。

 湯気。 白い蒸気が、唐揚げの山から立ち昇っている。 しかし、その湯気は揺らめいていない。 煙の形をした彫刻のように、空中でピタリと静止(フリーズ)している。

 時間停止。

 ビールジョッキを見る。 黄金色の液体の中に、炭酸の気泡が浮かんでいる。 それもまた、上昇の途中で止まっている。

 鳥肌が立つ。 寒さではない。 生物としての本能が、この「物理法則の墓場」を拒絶して、皮膚を粟立たせているのだ。

「……世界の処理落ち(ラグ)でござるな」

 ジンが近づく。 彼の靴音がしない。 この空間は、音波の伝達さえも拒否しているのか。

 彼は、白く細い指を伸ばした。 湯気を立てて静止している唐揚げへと。

「触るな」

 私の喉が引きつる。 触れてはいけない。 それは、見てはいけない「バグ」だ。

 だが、遅い。 ジンの指先が、カリッと揚がった衣に触れた。

 その瞬間。

 シュボッ。

 音が戻った。 空気が動き出す。

 と同時に。

 ボロボロ……。

 鮮やかだった唐揚げが、一瞬にして色を失った。 茶色が灰色へ。 脂の光沢が、乾いた粉末へ。

 風化(ウェザリング)

 一ヶ月分の時間が、コンマ一秒に圧縮されて襲いかかった。 唐揚げは、乾燥したミイラのように崩れ落ち、ただの灰色の塵となって皿の上に堆積する。

 ジョッキのビールが、瞬時に蒸発し、茶色いシミだけを残して消滅する。

 臭い。 鼻腔びくうを、猛烈な悪臭が襲撃する。 腐敗臭ではない。 数千年分の埃と、カビの胞子を一気に吸い込んだような、乾いた死の臭い。

「ゲホッ、ゲホッ!」

 咳き込む。 気管支が痙攣する。

 私たちは、ここで何をしようとした? 「終わらない夜」? 「永遠の青春」?

 その代償がこれだ。 時間を止めるということは、鮮度を保つことではない。 世界から切り離し、真空パックして、緩やかな死を与えることだ。

 灰になった唐揚げの山。 その横に、見覚えのある長方形の物体が落ちている。

 黒いスマートフォン。 画面が割れ、内部の基盤が剥き出しになっている。

 早川のスマホだ。 第17幕で水没し、ここに遺棄された「記憶媒体」。

 私は、震える手を伸ばした。 指先に触れる灰の感触が、ザラザラと不快に神経を逆撫でする。 拾わなければならない。 この灰の中に、私たちが消してしまった「彼女」の記録が埋もれている。

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