――第 43 幕 存在しない階層とエレベーターの振動――
光が、背後で死んだ。
スクランブル交差点の喧騒と、早川たちの笑い声。 それらが物理的な距離によって減衰し、路地裏の湿った闇に吸い込まれて消滅する。
残ったのは、私とジン、そして腐った生ゴミと汚水が混ざり合ったドブ川の臭気だけ。
繁華街の裏側。 「第3ソシアルビル」。
目の前に聳えるその雑居ビルは、周囲の建物とは異質な周波数を発している。 外壁のタイルは皮膚病のように剥がれ落ち、露出したコンクリートが黒ずんでいる。 エントランスの蛍光灯は、瀕死の虫のようにチカチカと不規則に明滅し、足元の水たまりに神経質な影を落としている。
「御仁。妙でござるな」
ジンが立ち止まる。 彼はビルの案内板を見上げている。 プラスチックのプレートには、1階から4階までのテナント名――大半が風俗店か消費者金融だ――が記されている。
「この箱、4階までしかありませぬぞ」
彼の指摘は正しい。 物理的な構造上、このビルは4階建てだ。屋上への階段も見当たらない。
だが、私の脳髄にある記憶データは、異なる座標を指し示している。 あの日。 五次会で泥酔し、連れ込まれたのは、間違いなく「5階」だった。
「……あるんだよ」
喉の奥から、鉄錆のような声が出た。 論理ではない。 私の内耳にある三半規管が、このビルの上空にぽっかりと開いた「空洞」の重力を感知している。
私はエントランスへ踏み込んだ。 床のタイルが、ジャリと音を立てる。 壁一面に貼られた風俗店のステッカー。 その無数の剥がし跡が、黒い瘡蓋のように壁面を覆い尽くしている。
エレベーターホール。 空気が淀んでいる。 長期間換気されていない密室特有の、カビと古いタバコの粒子が肺に張り付く。
上へ参ります。 ボタンを押す。 プラスチックが脂でベトついている。
ガコン。
重い金属音と共に、扉が開く。 箱の中は狭い。 壁のフェルト地は無数に切り裂かれ、中のスポンジが黄色く露出している。
乗り込む。 ジンが無言で続く。
操作パネルを見る。 「1」「2」「3」「4」。 プラスチックのボタンは、そこで終わっている。 その上には、ただのステンレスの金属板があるだけだ。
ない。 視覚的には、存在しない。
だが。
私は右の人差し指を伸ばした。 震えはない。 あるのは、傷口を無理やりこじ開けるような、暗い衝動だけ。
「4」のボタンの上。 何もない、冷たい金属のスペース。
そこを、強く押す。
ズブッ。
硬いはずのステンレスが、腐った果実のように柔らかく沈み込んだ。
「……ッ」
指先に伝わる、生温マしい感触。 金属ではない。 まるで、内臓の壁を直接触っているような、ヌルリとした粘着質の抵抗。
その瞬間。
ジジッ……ジジジッ……。
パネルの内部で、ショートしたような異音が走る。 私の指が触れている「何もない場所」に、赤黒い光が滲み出し、歪んだ文字を形成する。
『5』。
熱い。 指先が火傷しそうなほどの熱量。
ガタン!
箱全体が、縦方向に激しく揺れた。 地震ではない。 エレベーターのワイヤーが、物理的な限界を超えて軋む音。
動き出す。 上昇しているのではない。 胃の腑が浮き上がるような浮遊感と同時に、鼓膜が内側から圧迫される。
キィィィィィン……。
高周波ノイズ。 脳の奥で、何かが書き換えられていく音。 これは物理的な移動ではない。 正常な世界から、バグだらけの異界へと、座標を強制的に転送されているのだ。
「……開きますぞ」
ジンの声が遠い。 視界がノイズでざらつく。
チン。
間の抜けた到着音が、静寂を引き裂いた。 扉が開く。
そこには、廊下はなかった。 ただ、どこまでも続く、漆黒の深淵が口を開けて待っていた。
空気の味が違う。 酸素がない。 あるのは、時間が停止した空間特有の、真空の匂いだけだ。




