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――第 42 幕 幸福な幽霊と交わらない視線――

 電子音が、歪んで聞こえる。

 ピヨッ、ピヨッ。カッコー、カッコー。 信号機のメロディ。 本来は視覚障害者を誘導するための親切なサイン音が、今の私には、壊れたラジオから流れるお経のように不吉な周波数で鼓膜を削る。

 繁華街への入り口。 巨大なスクランブル交差点。

 信号が赤だ。 私は立ち止まる。 隣に立つジンも、無言で足を止める。

 空気が薄い。 酸素濃度が物理的に低下しているような息苦しさ。 周囲を埋め尽くす群衆。 彼らが吐き出す二酸化炭素と、安っぽい香水の匂いと、大衆居酒屋の脂っこい排気が混ざり合い、目に見えない粘膜(ねんまく)となってこの空間を覆っている。

 私は、自分の足元を見た。 汚い。 第41幕でアンナを踏み越えた際についた泥と、赤錆の汚れ。 それが、周囲の歩行者たちの磨かれた革靴や、清潔なスニーカーと決定的な対比を作っている。

 解像度が違う。 この交差点において、私とジンだけが、粗いドットで描かれた「バグ」だ。

「……あ」

 対岸。 人の波の向こう側に、見覚えのあるシルエットがあった。

 赤い顔。 冬だというのに袖をまくり、身体から湯気を立てている男。

 早川だ。

 彼は一人ではない。 サークルの後輩たちだろうか。数人の男女に囲まれ、何かを大声で話しながら笑っている。

 その笑顔。 眩しい。 物理的に、網膜を焼くほどの光量。 そこには、何の屈託も、陰りも、バグもない。 圧倒的な「正常性」の輝き。

 ドクン。

 心臓が、肋骨を裏側から殴打した。 声をかけろ。 名前を呼べ。

「お……」

 喉が張り付く。 声帯が麻痺して、空気の漏れる音しか出ない。

 違う。 呼んではいけない。 あの光の輪の中に、今の私が――泥と錆にまみれ、正論を踏み潰してきた怪物が――侵入することは、物理的に許されない。

 早川が、ふと顔を上げた。

 視線が動く。 彼の瞳が、交差点を挟んでこちら側を向く。

 目が合った。

 いや。

 素通(すどお)り。

 彼の瞳孔は収縮しなかった。 認識していない。 彼の網膜には、私の姿が映っているはずだ。 だが、彼の脳の処理システムが、私という存在を「風景の一部(背景テクスチャ)」あるいは「認識不要なノイズ」として処理し、意識の表層から削除したのだ。

 ゾワリ。

 背筋を、無数の虫が這い上がるような感覚。

 いない。 私はもう、彼にとって「友人」ではない。 道端の電柱や、ガードレールと同じ、ただの無機物だ。

『第35幕』の電話で、彼は私を拒絶した。 だが、今のこれは拒絶ですらない。 完全なる無関心(インディファレンス)

 信号が変わる。 ピヨッ、ピヨッ。

 人の波が動き出す。 黒い濁流。

 早川たちが歩き出す。 光の方へ。 明るいアーケード街、正常な青春が待つ方角へ。

 私は、逆方向へ足を踏み出した。 ジンが黙ってついてくる。

 闇の方へ。 路地裏の、カビと腐敗臭が漂う「五次会」の入り口へ。

 すれ違う。 物理的な距離は数メートル。 だが、その間には、深さ数千メートルの断絶(クレバス)が横たわっている。

 早川の笑い声が、すれ違いざまに鼓膜を撫でた。 楽しそうだ。 本当に、楽しそうだ。

「……元気でな」

 私の唇から漏れた言葉は、誰の耳にも届かず、交差点の騒音にかき消されて消滅した。

 これでいい。 私が選んだのだ。 この、薄暗くて、息苦しくて、バグだらけの世界を。

 足裏から伝わるアスファルトの冷気が、妙に心地よい。 私は泥のついた靴で、闇の奥へと続く道を、強く踏みしめた。

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