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――第 41 幕 泥の足跡とチューニングのズレ――

 キィィィィン……。

 鼓膜の奥で、アンナの声が金属的な高周波となって反響している。 意味は聞き取れない。 ただ、「止まれ」「戻れ」という命令信号だけが、脳髄を直接揺さぶってくる。

 目の前には、不可視の断絶(バリケード)。 彼女が言葉を発するたびに、透明なガラスのブロックが積み上がり、厚みを増していく。 向こう側にいる彼女の顔が、屈折して歪んで見える。

 正しい。 彼女は正しい。 社会的にも、倫理的にも、生物学的にも、彼女の言うことに一ミリの瑕疵かしもない。

 だからこそ、通れない。 正論という素材で作られた壁は、ダイヤモンドよりも硬い。

「……う」

 胃の腑から、酸っぱい液がせり上がる。 足がすくむ。 このまま膝を屈してしまえば、楽になれる。 「すみませんでした」と謝り、元の世界へ帰還する。 それが一番、スマートで、傷の浅い選択だ。

 だが。

 私の視線が、自分の足元に吸い寄せられた。

 スニーカー。 かつて白かったその靴は、赤錆と、雨水と、土埃が混ざり合った、ドス黒い泥に覆われている。

 汚い。 洗練されたアンナのヒールとは対照的な、有機的な汚れ。

 その汚れを見た瞬間、脳内で何かが破断(スナップ)した。

 スマート? 傷が浅い?

 違う。 私は、スマートになりたくてここに来たのではない。 泥沼に頭から突っ込むために、わざわざ靴紐を締め直したのだ。

「……会いたいんだよ」

 口から漏れたのは、論理のかけらもない言葉。

「理由なんてない。ただ、会いたいから行くんだ」

 それは説得ではない。 駄々っ子の喚き声。 純度100%の、醜い我執(エゴ)

 私は右足を上げた。 重い。 泥と重力が、足首に絡みついている。

 その足を、透明な壁に向けて突き出す。

「……ッ!」

 アンナが目を見開く。 彼女の想定プロトコルにはない動作。

 私は、その汚れたソールを、彼女の構築した聖域ガラスへと叩きつけた。

 グチャッ。

 湿った音がした。 ガラスが割れる音ではない。 腐った果実を踏み潰したような、あるいは吐瀉物をぶち撒けたような、生理的に不快な粘着音。

 透明な壁が、私の靴の泥と反応し、白濁(はくだく)していく。 硬度が失われる。 絶対的だった「正しさ」が、私の「けがれ」によって汚染され、ヌルリとしたゲル状の流体へと変質する。

「ひっ」

 アンナが後ずさる。 彼女の完璧な顔が、恐怖ではなく、生理的な嫌悪で歪む。

「な、なによアンタ……気持ち悪い」

 その言葉は、私への最大の賛辞だ。 私は今、彼女の理解ロジックを超えた「異物」へと進化したのだ。

 ズズッ、ズズッ。

 私は泥の足跡を残しながら、液状化した壁を踏み越える。 靴底が地面に吸い付く感触。 不快だが、頼もしいグリップ力。

 アンナの横を通り過ぎる。

 ふと、彼女を見る。

 チカッ。

 彼女の顔が一瞬、ノイズ混じりの映像のように乱れた。 輪郭がボヤけ、肌の質感が粗いドットの集合体に見える。

 解像度低下(ローレゾリューション)

 彼女もまた、この世界のテクスチャの一部でしかなかったのだ。 私が「観測」をやめた瞬間、彼女の存在強度はここまで低下する。

「……お先に」

 投げ捨てた言葉は、風に流されて消えた。

 アンナはもう動かない。 彼女の「正しさ」は、ルール無用の泥靴の前では、何の効力も持たなかった。

 私は橋を渡りきる。 背後で、街の灯りが遠ざかる。 前方には、夜の闇に沈んだ大学のシルエット。

 ここから先は、地図のない領域だ。 私は、泥のついた靴で、アスファルトを強く蹴った。


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