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――第 40 幕 正しさのバリケードと高周波の説教――

 アスファルトが、ドス黒い赤に染まっている。

 土手から市街地へと架かる、コンクリートの橋。 沈みかけた太陽が、最後の断末魔のように粘り気のある光を放ち、地面に長い影を焼き付けている。

 足が重い。 第39幕で締め直した靴紐が、足の甲の血管を圧迫し、脈打つたびに鈍い痛みを信号として送ってくる。 だが、止まるわけにはいかない。 この橋を渡らなければ、「あちら側」へは行けない。

 橋の中央。 そこに、「それ」は立っていた。

 逆光。 夕日を背負い、黒いシルエットとなっている小柄な人影。 キャスケットのつばが、鋭角な影を目元に落としている。

 久野アンナ。

 彼女の輪郭だけが、この曖昧な夕暮れの中で、異常なほどくっきりと際立っている。 高解像度(ハイレゾリューション)。 背景の欄干や遠くのビル群がボヤけて見えるほどに、彼女の存在だけが、テクスチャの密度を異にしている。

「……また行く気?」

 声。 鼓膜を震わせる空気振動ではない。 脳髄の奥にある三半規管を、直接針で突くような高周波(モスキート)音。

 キィィィィン……。

 耳鳴り。 奥歯の詰め物が浮くような不快感。

 私は足を止めた。 進めない。 物理的に、進めないのだ。

 彼女の足元から、透明な障壁(バリケード)が展開されている。

 視認はできない。 だが、肌を刺すピリピリとした静電気のような圧力が、そこに見えない壁があることを告げている。

「まだ懲りてないの? いい加減にしなさいよ」

 アンナが一歩踏み出す。 ヒールの音が、乾いた銃声のように響く。

「あの子は迷惑してる。アンタのやってることは、ただの自己満足よ」

 正論。 一分の隙もない、完璧な論理。 その言葉の一つ一つが、質量を持ったガラスのブロックとなって、私の目の前に積み上げられていく。

 息が詰まる。 酸素濃度が低下している。 彼女の「正しさ」が、この場の空気を独占し、私を窒息させようとしている。

「……どいてください」

 喉から絞り出した声は、ひどくかすれていた。

「帰れッ!」

 ドォォン!!

 衝撃波。 彼女の叫びが、不可視のハンマーとなって私の前頭葉を殴打した。

 視界が白く明滅する。 頭痛。 眼球の裏側で、血管が悲鳴を上げている。

 痛い。 殴られるよりも痛い。 彼女の言葉は、社会的倫理、法、常識、そして私の「後ろめたさ」を成分として精製された、劇薬の猛毒だ。

「就職はどうするの? 親が泣くわよ。現実を見なさい!」

 追撃。 ガラスの壁が、さらに厚みを増す。 向こう側にいる彼女の顔が、屈折して歪んで見える。

 逃げ場がない。 橋の下を流れる川の音が、ゴウゴウと響いている。 いや、それは水音ではない。 何千人もの女性が、口々に私の愚かさを嘲笑っているような、不気味な周波数(ノイズ)

 私は膝をつきそうになる。 重力アレルギーが悪化している。 地面が泥沼のように私を引きずり込み、このままアスファルトの染みとして定着させようとする。

 後ろで、気配がした。 ジンだ。 彼は少し離れた場所で、手すりに寄りかかり、ニヤニヤとこの処刑劇を眺めている。 助け舟は出さない。 これは私が単独で突破しなければならない「通過儀礼」だと知っているからだ。

「……う、ぅ」

 胃液が逆流する。 酸っぱい味が、口の中に広がる。

 アンナは腕組みをして、冷徹に見下ろしている。 彼女は動かない。 動く必要がない。 「正しい側」にいる人間は、ただそこに在るだけで、異物(私)を物理的に圧死させることができる。

 壁は高い。 そして、どこまでも硬く、透明だ。

 私は、脂汗で滑る掌を、ズボンの生地に擦り付けた。 突破口はあるのか。 この完璧な論理の城塞を、論理で崩すことは不可能だ。

 ならば。

 私の視線が、自分の汚れたスニーカーに落ちる。 泥。 第34幕でついた赤錆と、雨の日の泥が、層になってこびりついている。

 汚い。 だが、今の私には、この汚れだけが唯一の武器に見えた。

 風が吹く。 アンナの髪は微動だにしないが、私のボサボサの髪だけが、惨めに乱されている。 その不快な風の感触が、麻痺しかけた思考回路に、小さな火花を散らせた。

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