――第 39 幕 重力アレルギーと二度目の靴紐――
吐き気がする。
胃の中身はない。数日間、水と腐りかけの空気しか摂取していないからだ。 だが、内臓が下へ下へと引っ張られる感覚が、強烈な嘔吐中枢への刺激となって喉を焼く。
重力。
久方ぶりに外に出た肉体が、地球という巨大な質量の引力に過剰反応している。 地面が、泥沼のように私の足首を掴み、地核の方角へと引きずり込もうとする。 立っているだけで、大腿四頭肌が悲鳴を上げ、脊椎がミシミシと圧縮される。
重い。 世界に参加するということは、これほどの負荷(G)に耐え続けることだったか。
「……ッ、ぅ」
私は土手のコンクリート階段に、へたり込んだ。 尻から伝わる冷気が、唯一の安定剤だ。
目の前。 鏡川の水面が、ドス黒い赤に染まっている。
夕暮れ。 太陽が稜線の向こうへ堕ちていく。 その最後の断末魔のような光線が、私の網膜を焦がす。
赤。 いや、錆びたオレンジ色。
脳裏にフラッシュバックする。 あの夜、闇を切り裂いたマウンテンバイクの残像。 そして、雨の中で見た、赤錆にまみれた鉄の死骸。
ズキリ。
心臓の奥で、幻肢痛が走る。 失ったはずの手足が痛むように、そこに「いない」はずの彼女の存在が、欠落として痛む。
「で、御仁」
頭上から、涼しい声が降ってきた。 ジンだ。 彼は逆光の中に立ち、その白いシャツだけが、夕日を拒絶するように青白く浮いている。
「このまま此処で朽ち果てるか。それとも、踊るか」
問いはシンプルだ。 慰めも、励ましもない。 ただ、被写体が「動く」か「止まる」かを確認するだけの、観測者の確認作業。
私は、膝に手を置いた。 震えている。 恐怖か、武者震いか、あるいは単なる筋力低下か。
動きたくない。 このまま、この重力に従って地面と一体化し、シミになりたい。 その方が楽だ。論理的だ。
だが。
私の右手は、意思を裏切ってスニーカーへと伸びた。
ほどけた靴紐。 薄汚れた白。
指先が紐を掴む。 冷たく、ざらついた繊維の感触。
ギュッ。
強く、引く。 指の肉が食い込む痛み。 血流が止まり、指先が白く変色するほどの力で、私は結び目を締め上げた。
痛い。 足の甲が締め付けられる圧迫感。 だが、その痛みこそが、私をこの物理世界に固定する錨だ。
「……ふぅ」
息を吐く。 肺の中の澱んだ空気が排出され、代わりに夕暮れの乾いた風が入ってくる。 鉄の味。土埃の匂い。
立ち上がる。 膝が笑う。 重力は消えない。依然として、鉛のコートを着ているように体が重い。
だが、立てた。
「……行くよ」
喉から漏れた声は、擦り切れたレコードのように低い。
「何処へ?」
ジンが問う。 彼はニヤリと笑っている。私の答えを、既に知っている顔だ。
私は、赤く染まった川面を睨みつけた。 あちら側。 正常な世界が終わり、バグだらけの夜が始まる場所。
「五次会だ」
口をついて出たのは、狂気の続き。
「あの夜の続きを、始めに行く」
それは「彼女を助ける」などという綺麗な動機ではない。 私が始めた物語を、途中で投げ出したまま終わるのが許せないという、醜い自尊心だ。 私の書いたシナリオが「失敗作」として処理されることへの、生理的な拒絶。
「……左様でござるか」
ジンは満足げに頷き、カメラを構え直した。
「ならば、参ろう。宴はまだ終わっておりませぬ」
風が吹く。 ゴウッ、と鼓膜を圧迫する強風。 それは私を押し戻そうとする世界の拒絶か、あるいは背中を押す悪魔の息吹か。
一歩、踏み出す。 重い。 だが、靴紐はもう緩まない。
二つの長い影が、錆びついた夕暮れの街へと伸びていった。




