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――第 38 幕 単眼のファインダーと色のない街――

 外界は、暴力で満ちている。

 アパートの鉄扉を開けた瞬間、熱波が顔面を殴打した。 アスファルトからの照り返し。 大気中を浮遊する排気ガスの微粒子。 そして何より、頭上の太陽が降り注ぐ紫外線が、引きこもり生活で脆弱(ぜいじゃく)になった皮膚をジリジリと焼く。

「……ぐ、ぅ」

 眩暈(めまい)。 視界が白く明滅する。 三半規管が平衡を保てず、世界が斜めにスライドしていく感覚。

「歩け。リハビリでござるよ」

 前を行く背中。 ジン。 彼はこの灼熱の中でも、涼しい顔で歩を進めている。 白シャツには汗染み一つなく、まるで彼だけ別の空調管理されたレイヤーに存在しているかのようだ。

 私は、ゾンビのような足取りでその後を追う。 靴底が薄い。 地面の熱とザラつきが、足の裏の皮一枚隔てて直接伝わってくる。

 鏡川の土手。 風が強い。 ゴウッ、ゴウッ。 鼓膜を圧迫する風切り音が、思考を物理的に吹き飛ばしていく。

 川面が、午後の日差しを反射してギラギラと光っている。 無数の光の針。 それが眼球の網膜(もうまく)を無慈悲に刺す。 痛い。 物理的に、涙が滲む。

御仁ごじん。世界は眩しすぎるでござろう」

 ジンが立ち止まる。 彼は川を見つめたまま、首から提げたカメラを撫でた。 黒い塗装が所々剥げ、真鍮しんちゅうの地金が覗いている、古めかしい一眼レフ。

それがしには、こう見えておる」

 彼はカメラを外し、私に突き出した。

「覗いてみられよ」

 拒否権はない。 私は震える手で、その冷たい金属の塊を受け取った。

 ズシリ。

 重い。 デジタルガジェットの軽薄さとは違う、ガラスと金属と機構メカニズムの質量。 そこには、他人の視線を借りることへの物理的な重圧がある。

 私は、右目をファインダーに押し当てた。 冷たいゴムの感触。 左目を閉じる。

 カチリ。

 世界が、切り替わった。

「…………あ」

 息が漏れる。

 そこに広がるのは、さっきまでの「暴力的な世界」ではなかった。

 色がない。 彩度(サチュレーション)が極限まで落とされた、モノクロームに近い世界。

 光の乱反射は、整然とした白の階調へと変換されている。 風に揺れる草木は、ノイズではなく、幾何学的なパターンの繰り返しとして処理されている。 川向こうを行き交う人々や車は、有機的な生々しさを剥ぎ取られ、ただの「移動する図形ポリゴン」として、静かに滑っている。

 静寂。 ファインダーの中だけ、風の音が消えている錯覚。

 美しい。 いや、冷たい。

 情報の濾過(フィルタリング)。 ジンは、この世界をそのまま受け入れているのではない。 彼は常に、このレンズというフィルターを通して、ノイズ(感情や色彩)を削ぎ落とし、構造だけを抽出して認識しているのだ。

「……お前、いつもこんな風に見えてるのか」

 ファインダーから目を離さずに訊く。

「左様。色彩はノイズでござる。感情もまた然り」

 ジンの声が、風に乗って遠くから聞こえる。

「生き辛い世の中でござろう? 故に、こうしてフレームで切り取り、標本にするしかないのでござるよ」

 心臓が、肋骨を裏側から叩いた。 ドクン。

 共鳴。 この男もだ。 この、すました顔をした異邦人も、私と同じ「適合不全者エラー」なのだ。

 彼は世界に参加できない。 あまりに過剰なノイズに耐えられないから、自らを「観測者」という安全圏に置き、レンズという防壁越しにしか世界に触れられない。

 孤独。 その深淵の深さが、ファインダー越しに伝染うつってくる。

 私はシャッターボタンに指をかけた。 指先が震える。 この光景を、私も所有したいというエゴ。

 カシャッ。

 乾いた金属音。 鏡が跳ね上がり、幕が走り、世界が一瞬だけ暗転して、フィルムに焼き付けられる。 その手応えが、指先から腕を伝って脳髄に響く。

 気持ちいい。 現実を切り裂き、自分のものとして保存する快感。

 私はカメラを下ろした。 途端に、色彩と光の暴力が雪崩れ込んでくる。 眩しい。暑い。うるさい。

 だが、先ほどまでの不快感とは少し違う。 私は知ってしまった。 このノイズまみれの世界の裏側に、あの静謐な「幾何学の美」が隠されていることを。

 ジンがニヤリと笑っている。 その瞳は、やはりレンズのように光を反射して、底が見えない。

「……悪くない」

 私がカメラを返すと、彼は愛おしそうにそれを首にかけ直した。

「共犯者になりそうでござるな、御仁」

 風が吹く。 私のボサボサの髪と、ジンの整えられた黒髪を乱していく。

 川面を見る。 光の反射は相変わらず目に痛い。 だが、その光の粒の一つ一つが、今はただの物理現象の集合体として、冷たく、そして美しく見えた。

 私たちは並んで歩き出す。 言葉はいらない。 同じ「バグ」を抱えた二つの個体が、色のない街を背に、夕暮れの方角へと歩を進めた。

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