――第 37 幕 開錠された密室とカビの標本――
ブーン……。
冷蔵庫のコンプレッサー音が、耳の奥で粘りつくような低い周波数を刻んでいる。 それは、この四畳半という密室の心音だ。
私は布団という名の繭の中で、腐りかけた有機物のように横たわっている。 何日経過したのか。 カーテンの隙間から差し込む光の角度が変わるたびに、埃の粒子が白く浮き上がり、そして闇に沈むのを繰り返している。
空気の循環がない。 自分の吐き出した二酸化炭素と、部屋の隅から漂う酸っぱい腐敗臭が、肺の中で飽和している。
ガチャリ。
金属が擦れ合う音がした。 ドアノブが回る音。
ビクリと、心臓が肋骨を叩く。 鍵はかけたはずだ。 幻聴か。あるいは、大家か。
キィィ……。
蝶番が悲鳴を上げ、鉄の扉が開く。 外気の流入。 冷たく、乾いた空気が、部屋の淀みを物理的に撹拌する。
「御仁《ごじん》。随分と発酵が進んでおるな」
その声。 抑揚のない、合成音声のように整った日本語。
ジンだ。
彼は靴を脱がずに、土足で踏み込んできた。 いや、よく見ると靴の上から青いビニールカバーを被せている。 鑑識官か、汚染区域の処理班のような出立ち。
「……な、ぜ」
喉が張り付いて、声が出ない。 声帯が乾燥し、錆びついた鉄のような音が漏れる。
ジンは私を一瞥もしない。 彼の視線は、部屋の最も暗い場所――私が数日前に蹴り飛ばした、鞄のあたりに固定されている。
カツ、カツ。
彼が歩くたびに、畳がきしむ。 私の聖域が、異物によって蹂躙される音。
彼は鞄の前にしゃがみ込む。 白い手袋をした指先で、タッパーをつまみ上げる。
「見事な『成れの果て』でござる」
彼はタッパーを光の方へ掲げた。 半透明の容器の中。 かつて黄金色だった私のエゴは、いまやドス黒い汚泥と化し、表面を白と緑の菌糸が覆い尽くしている。
「これぞ、御仁の愛の結晶か」
感嘆。 皮肉ではない。 彼は、この醜悪な腐敗を、美しい化学変化として観測している。
カシャッ。
乾いた金属音。 彼の手にある古いフィルムカメラが、その「標本」を記録する。 シャッター音が、静寂を鋭利に切り裂く。
やめろ。 私の恥部を撮るな。
体を動かそうとする。 重い。 筋肉が液状化して、布団の繊維と癒着しているようだ。
「……帰れ」 「光が足りぬな」
ジンは私の拒絶をノイズとして処理し、立ち上がった。 彼が向かう先。 窓。
待て。 それはやめろ。
彼の手が、遮光カーテンにかかる。
「朝でござるよ」
シャーッ!
カーテンレールが走る、神経を逆撫でする摩擦音。
その瞬間。
バチッ。
音を立てて、世界が白く爆発した。
「あぐっ!?」
眼球が焼ける。 真昼の直射日光。 紫外線という名の暴力的な粒子が、無防備な網膜を容赦なく焼き尽くす。
痛い。 物理的に、脳髄が沸騰するような激痛。
私は布団の上でのたうち回る。 涙が勝手に溢れ出し、頬を伝う。 それは感情の涙ではない。 強すぎる刺激に対する、眼球の生理的な防御反応だ。
「起きられよ。被写体が腐りきっては、絵にならぬ」
逆光の中、ジンのシルエットが黒く浮かび上がる。 彼の丸眼鏡だけが、太陽光を反射してギラリと白く光っている。
逃げ場はない。 この四畳半の深淵は、彼の介入によって強制的に換気された。
私は、焼けるような目の痛みの中で、自分がまだ生きていることを――痛みを感じる神経が残っていることを、不快なほど鮮明に自覚させられていた。




