――第 36 幕 四畳半の深淵とカビの生えた黄金――
ブーン……。
冷蔵庫のコンプレッサーが、重低音の唸りを上げている。 その一定の周波数が、頭蓋骨の内部で共鳴し、思考を泥濘のように鈍らせる。
目を開ける。 暗い。 遮光カーテンの隙間から、針のような日光が一本だけ差し込んでいる。 その光の中で、無数の埃が浮遊し、不規則な軌道を描いて舞っている。
ここは何処だ。 ああ、私の城か。 四畳半。 万年床の煎餅布団。 染み付いた湿気と、私の体臭が濃縮された、閉鎖空間。
体が動かない。 重力係数が数倍に跳ね上がったかのように、肉体が布団の繊維にめり込んでいる。 指先一本動かすのにも、膨大なエネルギーを要する。
臭い。
鼻の奥に、異質な臭気がへばりついている。 私の汗の酸っぱい臭いではない。 もっと有機的で、甘ったるく、そして脳髄を直接刺激する腐敗臭。
発生源は、わかっている。
部屋の隅。 投げ出されたままの、紺色のダッフルコートと、通学鞄。
見たくない。 脳が警報を鳴らす。 だが、嗅覚という原始的なセンサーが、その存在を無視させてくれない。
私は、ゾンビのように上体を起こした。 関節がバキバキと乾いた音を立てる。 這うようにして、鞄に近づく。
ファスナーに手をかける。 昨夜は溶接されたように開かなかったそれが、今はヌルリと抵抗なく開いた。
中にある、プラスチックのタッパー。 風呂敷は湿気を吸って重く、変色している。
蓋を開ける。
プシュ。
密閉されていたガスが抜ける音。 同時に、嘔吐中枢を鷲掴みにするような激臭が、部屋の空気を汚染した。
「うっ」
口元を押さえる。 胃の腑が痙攣し、酸っぱい液が喉元までせり上がる。
中身を見る。
そこには、もはや「黄金」の面影はない。
黒い汚泥。
かつて、プラスチックのように完璧な光沢を放っていた玉子焼きは、原形を留めぬほどに溶解している。 表面には、緑と白の綿毛のようなカビがびっしりと繁殖し、独自の生態系を形成している。
たった一日。 作ってから、まだ二十四時間と経っていない。 物理的に、これほどの速度で有機物が分解されるはずがない。
だが、現実は目の前にある。 これは料理ではない。 私の肥大化した自意識、見栄、そして誰にも受け入れられなかった「エゴ」の死骸だ。 私の心が腐っていたから、こいつも同じ速度で腐り落ちたのだ。
黒い汁が、タッパーの底に溜まっている。 それが、私自身の内面から漏れ出した膿のように見える。
パチン。
私は蓋を閉めた。 二度と開けない。 これは、このままゴミ箱へ、いや、記憶の焼却炉へ放り込むべき汚物だ。
私はタッパーを鞄の奥底へ押し込み、部屋の最も暗い隅へと蹴り飛ばした。
倒れ込む。 再び、布団という名の繭の中へ。
視界が滲む。 涙ではない。 眼球の水分調整機能が壊れただけだ。
ブーン……。
冷蔵庫の音が、また鼓膜を支配し始める。 遠くで、選挙カーのスピーカー音が聞こえる。 「明るい未来を、子供たちへ」。
うるさい。 世界から音が消えればいい。 色が消えればいい。
私は布団を頭まで被った。 闇。 自分の呼吸音だけが、シュウ、シュウ、と空しく響く。
私は死んだ。 少なくとも、社会的な生命活動は、この四畳半の深淵において完全に停止した。




