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――第 35 幕 切断された回線と盟友の絶縁状――

 指先が、震えで穴に入らない。

 十円玉。 濡れた銅貨が、指の脂と雨水でヌルリと滑る。 カチャン。 硬貨投入口が、金属を飲み込む乾いた音。

 公衆電話ボックス。 夜の街にポツンと立つ、ガラス張りの棺桶。 四方の壁は結露で白く濁り、外の世界を遮断(シャットダウン)している。 狭い。 自分の吐く息の白さと、濡れたダッフルコートから立ち昇る生乾きの臭いが、この直方体を窒息しそうな湿度で満たしている。

 受話器を耳に当てる。 誰かの耳の脂が酸化したような、酸っぱいプラスチックの臭い。

 プー、プー、プー。 発信音。

 指が記憶している番号を押す。 あいつだ。 あいつなら、まだ起きている。 あいつなら、笑い飛ばして「しゃーないな」と言ってくれるはずだ。

 早川。 私の最後の命綱。

 トゥルルル……。

 呼び出し音。 長い。 一回鳴るたびに、心臓が肋骨を裏側から蹴り上げる。

 ガチャリ。

 通話がつながった。 電気信号の向こう側から、微かな生活音が漏れてくる。

「……早川か」

 喉から絞り出した声は、ひどくかすれていた。 雨水を吸いすぎた肺が、ヒューヒューと鳴っている。

「助けてくれ。あの子がいなくなったんだ。自転車が、錆びて……」

 言葉がまとまらない。 恐怖と混乱が、嘔吐物のように口から溢れ出す。 俺の話を聞いてくれ。 笑ってくれ。 「アホか」と罵倒してくれ。

 しかし。

『…………』

 沈黙。 いつものような、鼓膜を破らんばかりの怒号も、呆れた溜息もない。 ただ、冷たい「無音」だけが、受話器のスピーカーから流れ込んでくる。

「……おい、聞いてるのか」

『お前、まだやっとったんか』

 ヒュッ。 息が止まった。

 声が、違う。 声質は早川のものだ。 だが、そこには温度がない。 いつものような「熱気」も「湿り気」も完全に濾過(フィルタリング)された、知らない男の声。

『周りからどう見えとるか、知っとるか?』

 問いかけ。 答えを待っていない、宣告のトーン。

『お前、完全に怪談(ホラー)やで』

 ドクン。

 心臓が、不正なリズムで跳ねた。

 ホラー。 私が? 青春ドラマの主人公ではなく?

『写真の時もそうや。一人で何もない空間に向かって笑うて、踊って……。正直、見てられへんかったわ』

 言葉のナイフ。 物理的な質量を持って、鼓膜を突き破り、脳髄に突き刺さる。

 彼は、我慢していたのだ。 「面白い友人」として許容できる範囲を、私の行動バグはずっと前に超えていた。 彼は今、友人として話しているのではない。 「正常な世界」の代表者として、異物(私)を排除しようとしているのだ。

『悪いけど、もう巻き込まんといてくれ』

 拒絶。 生存本能に基づく、正しい判断。

「ま、待てよ。俺たちは……」

『じゃあな』

 プツン。

 ツーツー、ツーツー。

 無機質な電子音。 回線が切断された。 世界と私を繋いでいた最後の一本が、物理的に断ち切られた音。

「……あ」

 受話器を握る手が、白く変色している。 戻らない。 彼との時間は、もう二度と戻らない。

 私は、返却口に指を突っ込んだ。 冷たい。 金属の冷気だけが指先を舐める。

 何も戻ってこない。 私が投入した「友情」も「時間」も、この緑色の機械に飲み込まれ、消化された。

 顔を上げる。 結露したガラス。 そこに映っているのは、青白い顔をした男。 目は虚ろで、濡れた髪が海藻のように張り付き、口元だけが引きつったように笑っている。

 怪物。 早川の言った通りだ。 そこに映っていたのは、青春を謳歌する若者ではなく、夜の底を徘徊する異形(ノイズ)だった。

 外を、車のヘッドライトが通り過ぎる。 光の帯が、ボックス内を一瞬だけ照らし、そして闇に戻す。

 私は受話器を置いた。 カチャン。 その音が、私の社会的死を告げる鐘のように、狭い密室に反響した。

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