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――第 34 幕 コンクリートの迷宮と錆びたオレンジ――

 雨が、粘膜(ねんまく)を叩く。

 空から水が落ちてくるのではない。 冷たい泥水の中に、頭から突っ込んでいるような窒息感。

 私は走っていた。 足裏がアスファルトを蹴るたびに、靴の中でふやけた皮膚がズレる感触がする。 気持ち悪い。 だが、止まれない。

 アンナの言葉が、物理的なとげとなって胸板に刺さっている。 『退部届』。 その白い紙片の残像が、瞼の裏に焼き付いて消えない。

 誤解だ。 会えばわかる。 話せば、またあのカビ臭い密室に戻れるはずだ。

 私は、彼女の下宿があるはずの区画へ向かった。

 角を曲がる。 風景が歪む。

 おかしい。 記憶にあるはずの道が、物理的に接続されていない。

 同じブロック塀。 同じ電柱。 同じ、放置された粗大ゴミのソファ。

 三回目だ。 私はこの角を、既に三回曲がっている。

 空間識失調スペーシャル・ディスオリエンテーション

 世界が、私の進行を拒絶している。 「お前の行く場所はない」と、都市機能そのものが座標を書き換えているような錯覚。

 街灯がチカチカと明滅(フリッカー)している。 その不規則な点滅が、視界をコマ送りのように分断し、距離感を狂わせる。

「……はぁ、はぁ」

 肺が焼ける。 吸い込む空気が、湿度100%の液体となって気管支に張り付く。

 ようやく、見つけた。 古びたアパート。 その横に、屋根のない駐輪場。

 あそこだ。 あそこに、彼女の「翼」があるはずだ。

 私は目を凝らす。 雨のカーテンの向こう。 灰色のコンクリートと闇に沈んだ自転車の山の中に、一点だけ、異質な色彩が存在する。

 オレンジ色。

 あった。 間違いない。 第21幕で、流星のように夜を切り裂いた、あの鮮烈な機体。

 安堵が、足の力を奪う。 私はよろめくように近づいた。

「……おい」

 声をかける。 自転車にではない。その向こうにいるはずの、彼女の幻影に。

 手を伸ばす。 ハンドルを掴む。

 ジャリ。

 乾いた音がした。 指先から伝わるのは、硬質な金属の感触ではない。 ボロボロと崩れ落ちる、脆弱な粒子の感触。

「……え?」

 視界のピントが合う。 明滅する街灯が、その全貌を青白く照らし出す。

 違う。 これは、マウンテンバイクではない。

 赤錆(あかさび)の塊だ。

 フレームの塗装は完全に剥げ落ち、オレンジ色は酸化鉄のどす黒い茶色に変色している。 チェーンは千切れ、スプロケットと一体化して癒着(ゆちゃく)している。 タイヤのゴムは溶け、地面のアスファルトと分子レベルで融合し、黒いシミのように広がっている。

 数十年。 いや、数百年。 この雨風の中に放置され続けなければ、ここまでの風化(ウェザリング)は起こり得ない。

 物理的な矛盾バグ

 私は、一週間前まで、彼女がこれに乗っているのを見た。 その時は、新品同様の輝きを放っていたはずだ。

 なのに、なぜ。

 指を見る。 茶色い粉。 洗っても二度と落ちないであろう、酸化した鉄の汚れが、指紋の溝にこびりついている。

 臭い。 雨の匂いに混じって、鼻の奥を刺す、強烈な鉄錆(てつさび)の臭気。 それは、終わってしまった時間の死臭だ。

「……嘘だろ」

 喉の奥から漏れたのは、否定の言葉。 だが、肉体は理解してしまった。

 動かない。 もう二度と、この鉄塊が走ることはない。 彼女が私のもとへ「飛んでくる」ための翼は、物理的に壊死している。

 私の青春(時間)は、まだ続いているつもりだった。 だが、世界の側では、とっくの昔に耐用年数を過ぎ、こうしてスクラップとして処理されていたのだ。

 寒気がする。 濡れた服が、急激に熱を奪っていく。

 私は、崩れかけたハンドルから手を離した。 掌に残ったザラザラとした感触だけが、ここにある唯一の現実リアルだった。

 雨脚が強くなる。 私の足元に広がる錆色の水たまりが、ドス黒く濁っていくのを、ただ見下ろしていた。

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