――第 33 幕 女王の鉄槌とひび割れたガラス――
水曜日。 放課後のチャイムが、間延びした音階で脳内を浸食する。
私は、サークル棟の階段を上っていた。 足取りが軽い。 重力係数が減少しているような浮遊感。 これから彼女を迎えに行き、あの湿った密室で、終わらないリフレインに身を沈めるのだ。
三階。 廊下の突き当たり。 「新文化部」のプレートが掛かったドア。
ノブに手をかける。 いつもなら、鍵は開いており、中には彼女がちょこんと座っているはずだ。
ガチャリ。
金属のラッチが外れる感触。 ドアを開ける。
「……え」
言葉が、喉の奥で凍りついた。
いない。 パイプ椅子に座るはずの、黒髪の少女の姿がない。
代わりに、窓際に「それ」は立っていた。
逆光。 激しく打ち付ける雨が、窓ガラスを叩き、灰色のスクリーンを作っている。 その前に立つ、小柄なシルエット。
久野アンナ。
彼女がゆっくりと振り返る。 その輪郭線だけが、この薄暗い部屋の中で異常なほどくっきりと際立っている。
高解像度。
背景の壁や机がボヤけて見えるほどに、彼女の存在感だけが鋭利な刃物のように視覚を切り裂く。
「……遅い」
彼女の声。 鼓膜を震わせる空気振動ではない。 脳髄に直接突き刺さる、高周波ノイズ。
「あの子なら、来ないわよ」
心臓が、肋骨を裏側から殴打した。 ドクン。
「……どういう、意味ですか」
私は部屋に踏み込む。 床板が、ミシミシと不吉な音を立てて軋む。 埃っぽい空気の中に、雨の湿気と、アンナから漂う鋭い香水の匂いが混ざり合っている。 不快だ。 私の聖域に、異物が侵入している。
「私が止めたから」
アンナが一歩、こちらへ近づく。 ヒールの音が、乾いた銃声のように響く。
「アンタといると、あの子がダメになる。……見てて分からない?」
正論。 彼女の口から放たれる言葉は、すべてが物理的な質量を持った「礫」だ。 私の顔面を、胸板を、容赦なく殴りつける。
反論しようと口を開く。 だが、声帯が麻痺して動かない。 図星だからだ。 カビの生えた密室で、彼女が摩耗していく様を、私は見て見ぬふりをしていた。
「もう、解放してあげなさいよ」
アンナが右手を振り上げる。 何かを持っている。 白い紙束。
ヒュッ。
風を切る音。
バシッ!
乾いた衝撃音が、私の胸板で炸裂した。 物理的な痛み。 紙の角が皮膚に食い込み、鎖骨に響く。
床に落ちたそれを見る。 『退部届』。 名前の欄には、あのみみずがのたうち回るような、不器用で、愛おしい文字が記されている。
彼女の字だ。 だが、その筆跡は震えている。 強制的に書かされたのか、それとも限界だったのか。
「……返せ」
私の口から、低い唸り声が漏れた。 思考ではない。 エゴだ。 私の物語を奪うな。私の観測対象を隠すな。
私はアンナを睨みつける。 彼女の完璧な顔立ちが、恐怖に歪むどころか、冷徹な軽蔑で彩られる。
「気持ち悪い」
彼女が吐き捨てる。
その瞬間。
ピキッ。
鋭い亀裂音が、部屋の空気を切り裂いた。
視界の端。 部室の窓ガラス。 その中央に、蜘蛛の巣のようなヒビが走っている。
誰も触れていない。 物理的な衝撃など、どこにもなかったはずだ。
だが、割れた。 私の維持してきた「閉じた世界」の限界強度が、アンナという現実の侵入によって臨界点を超え、物理的に破断したのだ。
ピキ、パキ、ピキ……。
亀裂が広がる音が、静まり返った部屋に反響する。 それは、私の日常が崩壊していくカウントダウンのように聞こえた。
アンナは動じない。 彼女はこの異常現象さえも、「私の正しさが証明された結果」として処理している。
「二度と近づかないで」
彼女は私を突き飛ばすようにして、横を通り過ぎる。 肩がぶつかる。 硬質な感触。
ドアが開く音。 閉まる音。 バムッ。
静寂。 残されたのは、私と、床に落ちた退部届と、ひび割れた窓ガラスだけ。
雨音が強くなる。 窓の亀裂から、冷たい風がヒューヒューと吹き込んでくる。 その風が、私の頬を濡らしている液体を冷やしていく。
涙ではない。 これは、脳の処理落ちによって漏れ出した、ただの排泄物だ。
私は床に膝をつき、震える手で退部届を拾い上げた。 紙は冷たく、そして死体のように重かった。




