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――第 45 幕 砕けたスマホと削除されたデータ――

 指先が、脂と灰で滑る。

 早川のスマートフォン。 第17幕で焼酎の海に沈み、一ヶ月間この真空の異界で放置されていた黒い長方形。 表面のガラスは蜘蛛の巣状に砕け、内部の基盤が内臓のように剥き出しになっている。

 電源ボタンを押し込む。 カチリ。 反応がない。 死んでいるのか。

 いや。

 ジジッ……。

 微かな通電音。 ひび割れた画面の奥で、液晶素子が不規則に明滅(フリッカー)を始めた。 青白い光。 その病的な光量が、暗闇に沈んだ私とジンの顔を下から照らし出す。 死人の顔色だ。

「……動くか」

 指が震える。 ロックは掛かっていない。 早川のセキュリティ意識の低さに、今だけは感謝する。

 アルバムを開く。 動画フォルダ。 最新のファイル。日付は、あの一ヶ月前の夜。

 再生ボタンをタップする。

 ギャアアアッ!

 割れたスピーカーから、電子的な悲鳴がほとばしる。 音割れ。 鼓膜をヤスリで削るような、劣化した音声データ。

 画面の中。 ブレた映像が映し出される。

『私が神だァ!!』

 赤ら顔の男。私だ。 テーブルクロスを引き抜き、食器をぶちまけながら、狂ったように叫んでいる。 見るに堪えない。 これは青春の記録ではない。理性のタガが外れた獣の生態記録だ。

 カメラがパン《移動》する。 撮影者(早川)が、隣にいるはずの「彼女」を映そうとする。

『ほら、こいつも……』

 その瞬間。

 ザザッ。

 映像が乱れた。

「……あ」

 息が止まる。 心臓が、冷たい手で鷲掴みにされたように収縮する。

 いない。

 私の隣。 彼女が座っていたはずの座標。 そこだけが、黒く塗りつぶされている。

 いや、黒塗りではない。 背景の壁が、半透明に透けて見える。 あるいは、画素ピクセルが激しく欠損し、砂嵐のような「ノイズの塊」となってうごメいている。

 輪郭だけが、辛うじて人の形を保っている。 だが、中身がない。 顔も、表情も、あの眼鏡の赤色も、すべてが情報として読み込めない。

『……? あれ、映らんぞ?』

 動画の中の早川が困惑している。 彼にも、レンズ越しには彼女が見えていなかったのだ。

御仁ごじん。……削除デリートされておるな」

 ジンの声。 感情の一切ない、冷徹な診断。

「不在なのではない。世界というOSが、彼女を『バグ』として認識し、画像データごと物理的に消去パージしたのでござる」

 私の脳髄に、高周波の耳鳴りが走る。 キィィィィン……。

 消された。 彼女は、最初からいなかったことにされたのか? 私のこの一ヶ月の苦悩も、執着も、全ては妄想だったというのか?

「ふざ、けるな」

 私は、画面の中の「ノイズ」に指を這わせた。 鋭利なガラスの破片が、指の腹を切り裂く。 痛い。 血が滲み、画面を赤く汚す。

 だが、その痛みの奥に。

 ジュッ。

 熱。 指先が火傷するほどの、異常な熱量。

 ノイズの向こう側。 この黒い砂嵐の深淵に、確かに「熱」がある。 体温ではない。 存在しようとして世界に拒絶された際のマ擦熱フリクションか、あるいは私の記憶が物理干渉を起こしているのか。

「……いる」

 私は確信する。 データは消えても、熱は残っている。

「ここに、いたんだ」

 私は画面を強く押し込んだ。 物理的に、彼女を引きずり出すために。

 バチッ!

 ショート音。 スマホが限界を迎えた。 内部から黒い煙が噴き出し、プラスチックと基盤が焦げる猛烈な異臭が鼻腔を突く。

 プツン。

 画面がブラックアウトする。 光が消えた。 完全な闇。

「……手荒でござるな」

 闇の中で、ジンの眼鏡だけが白く光っている。

 私は、煙を上げるスマホを放り投げた。 カシャン。 乾いた音が、静寂に吸い込まれる。

 証明は終わった。 彼女は「いない」のではない。「消された」のだ。 ならば、やることは一つしかない。

 指先の火傷の痛みが、脈打つたびに脳を刺激する。 そのジンジンとする痛みだけが、今の私に残された唯一の道標コンパスだった。

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