――第 31 幕 カビの生えた密室とリピートする安息――
空気が、濡れた雑巾のように重い。
吸い込むたびに、肺の肺胞に微細な水滴が付着し、酸素の交換効率を落としていく感覚。 鼻の奥にへばりつくのは、酸化した揚げ物油の臭いではない。 もっと古く、湿った、有機的な分解臭。
カビだ。
「フルーツクラブ」一〇五号室。 防音壁のクロスが、湿気を吸って浮き上がり、波打っている。 その内側から、黒い斑点が無数に滲み出し、地図のような模様を描いて拡散している。
外は梅雨らしい。 ここに来るまで傘をさしていた記憶が、遠い彼方の出来事のように曖昧だ。 この密室に入った瞬間、外の世界の気象データは遮断され、ここ独自の「澱んだ気候」が上書きされる。
『君、死にたもうことなかれ』
スピーカーから、割れた音が吐き出される。 まただ。 三ヶ月間、毎週水曜日。 この曲だけが、壊れたレコードのように、この狭い空間で反響し続けている。
私はソファに沈み込んでいる。 安っぽい合皮のシートが、体温で温まり、背中の皮膚にヌルリと吸い付く。 動きたくない。 このまま、このソファと融合して、ただの家具の一部になりたい。
「……先輩」
向かいの席。 彼女が、ストローでメロンソーダを啜る。 ズズッ、ズズズッ。 容器の底に残った氷と液体が混ざり合う、汚い音が響く。
彼女を見る。 緑色の液体の向こう側。 グラスの中の氷は、透明度を失い、白く白内障のように濁っている。
「楽しい、ですね」
彼女が言う。 その台詞。 先週も聞いた。先々週も聞いた。 抑揚、間、息継ぎのタイミングまで、完全に一致している。
再生された音声データ。
彼女は笑っている。 口角は物理的に上がっている。 だが、その頬の筋肉が、ピク、ピク、と痙攣しているのを、私の目は捉えている。
視線を下ろす。 彼女の左手。 膝の上に置かれたその指先が、無意識にソファの布地をカリカリと引っ掻いている。
繊維がほつれ、中の黄色いスポンジが覗いている。 それでも指は止まらない。 爪の間に、赤い布のカスが溜まっていく。
見なかったことにする。 これはノイズだ。 私の「完璧な安息」を阻害する、些末なバグだ。
「……ああ、楽しいな」
私は同意する。 思考を止める。 言葉の意味などどうでもいい。 この空間に「肯定」という信号を送り続けることだけが、私の役割だ。
曲が終わる。 静寂。 エアコンの送風音だけが、ゴーッという低い唸りを上げて、鼓膜を圧迫する。
「次、入れますね」
彼女がタブレットに手を伸ばす。 その動作も、プログラムされた機械のように正確で、そして酷く緩慢だ。
「いや、ちょっと待って」
ふと、魔が差した。 喉が渇いた。 同じメロンソーダではなく、温かいココアが飲みたい。 そんな、些細な気まぐれ。
私はテーブルの上の「演奏中止」ボタンに手を伸ばした。 一度、リセットしよう。
カチッ。
指先に、プラスチックの硬い感触。 ボタンは沈んだ。
だが。
『君、死にたもうことなかれ』
イントロが流れた。
ドンドン、ドンドン。 ドラムの音が、心臓の拍動と強制的に同期する。
「……あれ?」
もう一度押す。 カチカチカチッ。
止まらない。 画面には「送信中」の文字が出たまま、フリーズしている。
機械が、拒絶している。 「変化」を。 「停止」を。
この部屋のOSは、私たちがここから出ることを許可していない。 あるいは、私の「このままがいい」という強烈なエゴが、システムの回路を焼き切り、無限ループというバグを引き起こしているのか。
「……先輩」
彼女がマイクを握る。 その手が震えている。 指の関節が白く浮き出ている。
「歌いましょう。……です」
命令ではない。 懇願だ。 このルーチンを崩せば、何かが決定的に壊れてしまうことへの、生理的な恐怖。
彼女の瞳孔が開いている。 その奥には、私と同じ「底なしの沼」が広がっている。
私はマイクを握り直した。 グリップのゴムが、手汗で加水分解し、ベタベタと掌に張り付く。
歌うしかない。 壁の黒いカビが、拍手をする観客のように、視界の端でざわめいた気がした。
エアコンの風が、カビの胞子を含んだ湿った冷気を、私の首筋に吹き付け続けている。 逃げ場はない。 ここは、私たちが望んで作り上げた、鍵のかかっていない牢獄なのだから。




