表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

31/55

――第 30 幕 水曜日の密室と終わらないリフレイン――

 ドアが閉まる。 バムッ、という気圧の変化で、鼓膜が内側に押される。

 世界が遮断(シャットダウン)された。

 廊下から漏れ聞こえていた重低音も、店員の事務的な声も、分厚い防音扉によって物理的に切断される。 残されたのは、私たち二人と、六畳ほどの人工的な空間だけ。

 カラオケボックス「フルーツクラブ」。 一〇五号室。

 換気扇が、低い唸りを上げている。 フィルターの詰まった空調から吐き出される風は、カビと、酸化した揚げ物油と、甘ったるいシロップの臭いが混ざり合った、この店特有の「澱んだ空気」だ。

 肺に入れると、気管支が少しだけ収縮する。 だが、不快ではない。 この体に悪い空気こそが、今の私にとっての酸素(オキシゲン)だ。

「……先輩」

 向かいのソファ。 黒い髪の少女が、タブレット端末を操作している。 液晶の青白い光が、彼女の顔を下から照らし出し、レンズの奥の瞳に無機質なハイライトを作っている。

「入れましたよ」

 彼女の指先が、送信ボタンをタップする。

 ピロン。

 モニター画面が切り替わる。 イントロが流れる。

 まただ。 また、この曲だ。

『きみしにたもうことなかれ』。

 先週も、先々週も、その前も。 この一ヶ月、毎週水曜日のこの時間になると、彼女は判で押したように同じ曲を予約する。

 ループしている。 私の主観時間の中で、カレンダーの数字だけが進み、私たちが存在している「座標」は完全に固定されているのではないか。

 マイクを握る。 手汗でグリップが湿っている。 鉄の網の臭い。誰かの唾液が乾いた臭い。

 私は歌い出す。

 音程は不安定だ。 声帯が震え、スピーカーがハウリング気味の不協和音(ノイズ)を吐き出す。

 だが、彼女は笑っている。 タンバリンを叩くわけでも、手拍子をするわけでもない。 ただ、膝の上で両手を揃え、まるで宗教儀式を見守る信徒のような静けさで、私の歌声ノイズを聴いている。

 彼女を見る。 薄暗い照明の中、彼女の輪郭だけが、異常なほど鮮明に見える。

 高解像度(ハイレゾリューション)

 大学ですれ違う学生たちが、彩度の低い背景モブとして処理されるのに対し、この密室における彼女だけが、質量と熱を持って網膜に焼き付く。

 彼女もまた、私を見ている。 その瞳孔が開いている。 彼女が見ているのは「歌っている先輩」ではない。 世界から弾き出され、この狭い箱の中に逃げ込んできた「共犯者」としての私だ。

「……上手くなりましたね」

 間奏。 彼女が言う。 嘘だ。 音程バーは赤く点滅し、私の喉はガラガラだ。

 だが、彼女は本気でそう言っている。 彼女が求めているのは「技術的な向上」ではない。 この、ぬるま湯のような停滞が、永遠にリピート再生されることへの承認(アグリーメント)だ。

 ズズッ。 彼女がストローで、氷の溶けたメロンソーダを啜る。 緑色の液体が、プラスチックの管を通って上昇していく。

 人工的な甘さ。 人工的な光。 人工的な密室。

 外の世界では、就職活動が始まり、早川たちは新しいサークル活動に勤しみ、マユミ先輩は彼氏との泥沼を更新しているらしい。 それらは全て、テレビの向こう側の出来事のように遠い。

 ここには、何もない。 成長も、変化も、未来もない。 あるのは、傷を舐め合うような湿った視線の交錯と、終わらないリフレインだけ。

 心地よい。 背筋が溶けて、安っぽい合皮のソファに沈み込んでいく感覚。

 曲が終わる。 モニターに採点結果が表示される。 平凡な数字。

「……次、何歌います?」

 彼女がタブレットをこちらに向ける。 その画面には、私の履歴だけがずらりと並んでいる。

「同じでいい」

 私は答えた。 思考することを放棄した脳が、最も楽な選択肢を選び取る。

「はい。……です」

 彼女が微笑む。 その笑顔は、どこか焦点が合っておらず、そして、これ以上ないほどに幸福そうだ。

 ピロン。

 再び、同じイントロが流れる。 ドラムの音が、心臓の鼓動と同期する。 ドンドン、ドンドン。

 私はマイクを握り直した。 この密室から出るつもりはない。 少なくとも、この曲が、あと千回繰り返されるまでは。

 エアコンの風が、私の首筋を撫でる。 それはまるで、ここから逃がさないと囁く、幽霊の吐息のように冷たかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ