――第 30 幕 水曜日の密室と終わらないリフレイン――
ドアが閉まる。 バムッ、という気圧の変化で、鼓膜が内側に押される。
世界が遮断された。
廊下から漏れ聞こえていた重低音も、店員の事務的な声も、分厚い防音扉によって物理的に切断される。 残されたのは、私たち二人と、六畳ほどの人工的な空間だけ。
カラオケボックス「フルーツクラブ」。 一〇五号室。
換気扇が、低い唸りを上げている。 フィルターの詰まった空調から吐き出される風は、カビと、酸化した揚げ物油と、甘ったるいシロップの臭いが混ざり合った、この店特有の「澱んだ空気」だ。
肺に入れると、気管支が少しだけ収縮する。 だが、不快ではない。 この体に悪い空気こそが、今の私にとっての酸素だ。
「……先輩」
向かいのソファ。 黒い髪の少女が、タブレット端末を操作している。 液晶の青白い光が、彼女の顔を下から照らし出し、レンズの奥の瞳に無機質なハイライトを作っている。
「入れましたよ」
彼女の指先が、送信ボタンをタップする。
ピロン。
モニター画面が切り替わる。 イントロが流れる。
まただ。 また、この曲だ。
『きみしにたもうことなかれ』。
先週も、先々週も、その前も。 この一ヶ月、毎週水曜日のこの時間になると、彼女は判で押したように同じ曲を予約する。
ループしている。 私の主観時間の中で、カレンダーの数字だけが進み、私たちが存在している「座標」は完全に固定されているのではないか。
マイクを握る。 手汗でグリップが湿っている。 鉄の網の臭い。誰かの唾液が乾いた臭い。
私は歌い出す。
音程は不安定だ。 声帯が震え、スピーカーがハウリング気味の不協和音を吐き出す。
だが、彼女は笑っている。 タンバリンを叩くわけでも、手拍子をするわけでもない。 ただ、膝の上で両手を揃え、まるで宗教儀式を見守る信徒のような静けさで、私の歌声を聴いている。
彼女を見る。 薄暗い照明の中、彼女の輪郭だけが、異常なほど鮮明に見える。
高解像度。
大学ですれ違う学生たちが、彩度の低い背景として処理されるのに対し、この密室における彼女だけが、質量と熱を持って網膜に焼き付く。
彼女もまた、私を見ている。 その瞳孔が開いている。 彼女が見ているのは「歌っている先輩」ではない。 世界から弾き出され、この狭い箱の中に逃げ込んできた「共犯者」としての私だ。
「……上手くなりましたね」
間奏。 彼女が言う。 嘘だ。 音程バーは赤く点滅し、私の喉はガラガラだ。
だが、彼女は本気でそう言っている。 彼女が求めているのは「技術的な向上」ではない。 この、ぬるま湯のような停滞が、永遠にリピート再生されることへの承認だ。
ズズッ。 彼女がストローで、氷の溶けたメロンソーダを啜る。 緑色の液体が、プラスチックの管を通って上昇していく。
人工的な甘さ。 人工的な光。 人工的な密室。
外の世界では、就職活動が始まり、早川たちは新しいサークル活動に勤しみ、マユミ先輩は彼氏との泥沼を更新しているらしい。 それらは全て、テレビの向こう側の出来事のように遠い。
ここには、何もない。 成長も、変化も、未来もない。 あるのは、傷を舐め合うような湿った視線の交錯と、終わらないリフレインだけ。
心地よい。 背筋が溶けて、安っぽい合皮のソファに沈み込んでいく感覚。
曲が終わる。 モニターに採点結果が表示される。 平凡な数字。
「……次、何歌います?」
彼女がタブレットをこちらに向ける。 その画面には、私の履歴だけがずらりと並んでいる。
「同じでいい」
私は答えた。 思考することを放棄した脳が、最も楽な選択肢を選び取る。
「はい。……です」
彼女が微笑む。 その笑顔は、どこか焦点が合っておらず、そして、これ以上ないほどに幸福そうだ。
ピロン。
再び、同じイントロが流れる。 ドラムの音が、心臓の鼓動と同期する。 ドンドン、ドンドン。
私はマイクを握り直した。 この密室から出るつもりはない。 少なくとも、この曲が、あと千回繰り返されるまでは。
エアコンの風が、私の首筋を撫でる。 それはまるで、ここから逃がさないと囁く、幽霊の吐息のように冷たかった。




