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――第 29 幕 晒し首の恋文と歪んだ相関図――

 カサッ。カサッ。

 乾いた音が、規則的なリズムで鼓膜を撫でる。

 サークル棟の玄関横。 コルクボードの掲示板。 そこに、一枚の白い紙が(はりつけ)にされている。

 銀色の画鋲(がびょう)が、紙の中央を無慈悲に貫通し、コルクの深部まで食い込んでいる。 風が吹くたびに、紙の四隅がめくれ上がり、カサカサと死んだ昆虫の羽音のようなノイズを立てる。

 あれは、私の書いた恋文だ。

 第25幕で、私が闇の中へ廃棄したはずの「エゴの塊」。 それが今、何者か(十中八九、早川だ)の手によって発掘され、衆目に(さら)されている。

「…………」

 羞恥心はない。 感情を司る回路が、あの夜の過負荷で焼き切れているのかもしれない。

 私はその「死骸」を見上げた。 インクの染み。 『夜の(とばり)が下りる時、僕は君という特異点を観測する』 痛い。 物理的に、網膜が痛い。

 だが、誰も足を止めない。 通り過ぎる学生たちは、それを「痛いポエム」あるいは「前衛的な芸術作品」として処理し、視界の端へ追いやっている。

「……悪くない」

 口から漏れたのは、自己欺瞞(ぎまん)の極致。 これは晒し首ではない。展示だ。 私の歪んだ自意識が、この世界の一部として定着した証拠だ。

「あら、元気そうじゃない」

 背後から、湿った声がした。 マユミ先輩だ。

 振り返る。 異常だ。 彼女の肌は、内側から発光しているかのように艶やかで、血色が良すぎる。

「聞いた? うちの彼氏の浮気相手」

 彼女は笑っている。 その笑顔は、腐った果実のように甘く、毒々しい。

「アンタの同級生の、志保子ちゃんだって。ウケるでしょ?」

 世界が狭い。 私の高校時代の同級生と、先輩の彼氏。 見えない地下茎で、汚水が繋がっている。

 ドロドロとした人間関係の腐敗(ふはい)。 だが、マユミ先輩はその毒素を栄養源として摂取し、生命力を増大させている。 彼女にとって、不幸はスパイスではなく、主食なのだ。

「これから喧嘩しに行ってくるわ。止めないでよ?」

 彼女はスキップするような足取りで去っていった。 その背中からは、黒い湯気のような怨嗟(えんさ)と、底知れない活力が立ち昇っている。

「……平和だ」

 私は呟いた。 この世界は狂っている。だが、その狂気が一周回って、奇妙な安定エコシステムを形成している。

「ちょっと! 聞いてるの!?」

 キーッ。

 耳をつんざく高周波。 右方向から、新たなノイズが発生した。

 アンナ先輩だ。 彼女は私の腕を掴み、万力のような力で締め上げている。

「ジン君がまた変なこと言ったのよ! 『君の怒りは幾何学的に美しい』って、どういう意味!?」

 音圧。 彼女の口から放たれる言葉の一つ一つが、物理的な衝撃波となって私の顔面を殴打する。

 彼女もまた、変わってしまった。 以前のような「冷徹な門番」としての威厳は消え失せ、今は「理解不能な異星人ジン」に振り回される、ただの情緒不安定(ヒステリー)な女になり下がっている。

「……褒め言葉では?」 「はあ!? バカにしてるでしょ!」

 爪が食い込む。 痛い。 だが、その痛みこそが、私がこの「バグった日常」に生存している証明だ。

 視線を戻す。 掲示板の恋文が、またカサリと鳴った。

 早川はいない。 彼はもう、ここ(あちら側)には来ない。 新しい仲間と、高解像度の笑顔で笑っているはずだ。

 残されたのは、私たちだけ。 腐敗を愛でる女と、異星人に恋する女と、そして世界からズレてしまった私。

 風が吹く。 生温かい、春の気配を含んだ風。 それが、掲示板の紙片を揺らし、私たちの髪を乱し、歪んだ相関図を優しく肯定するように吹き抜けていく。

 これでいい。 正常な幸福など、今の私には眩しすぎて直視できないのだから。

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