――第 27 幕 五次会への招待状と共鳴する叫び――
プツン。
スマホの通話が切れる。 早川の怒号が消え、校庭に再び真空のような静寂が戻った。
だが、空気は死んでいる。 さっきまで共有していた「温度」は霧散し、代わりに気まずさと恥辱の冷気が、地面から足首へと這い上がってくる。
「……帰ります」
彼女が立ち上がる。 その動作には、一切の躊躇いがない。 防衛本能。 「異常(私)」から距離を取り、「正常(安全圏)」へ退避しようとする、生物としての正しい判断。
彼女はマウンテンバイクに跨る。 ペダルに足をかける。
チリッ。
チェーンがギアに噛み合う音が、乾いた空気を震わせた。 その小さな金属音が、私にとっては断頭台の刃が落ちる音のように聞こえる。
行くな。 行かせてはならない。
ここで彼女を逃せば、私はただの「痛い先輩」として記憶され、やがて削除される。 物語が終わる。 世界が、つまらない日常へと修復されてしまう。
焦燥感が、胃の腑で炭酸ガスのように膨れ上がる。 思考はいらない。 脳を経由せず、脊髄から直接、言葉を吐き出せ。
「待て!」
喉が裂けるほどの音量。 自分でも驚くほどの濁声が、夜気を引き裂いた。
彼女の背中がビクリと跳ねる。 ブレーキ音。 タイヤが砂利を噛んで停止する。
彼女は振り返らない。 ただ、その背中は強張っている。
私は息を吸い込む。 肺胞が冷気で凍りつき、パリパリと音を立てる。
言うべき言葉は何か。 「好きだ」? 「付き合ってくれ」? 違う。 そんな綺麗な言葉は、今の私(泥酔者)には似合わない。
私が提示できるのは、未来でも幸福でもない。 ただ、このどうしようもない夜の「続き」だけだ。
「……五次会だ」
口から漏れたのは、意味不明な単語。
「これから五次会に行く。……アンタも、来るか?」
それはデートの誘いではない。 底なし沼への道連れの勧誘。 「まともな人間」であることを辞めて、終わらない夜のふちへ一緒に堕ちないかという、悪魔の契約。
沈黙。
風が止まっている。 虫の声もしない。 世界が、彼女の回答(出力)を待って、処理を停止している。
彼女の肩が、小刻みに震え始めた。 拒絶か。恐怖か。 当然だ。こんな真夜中に、酔っ払いに訳の分からない場所に誘われているのだから。
「……っ」
彼女が口を開く気配。 私は身構える。 「嫌です」「警察を呼びます」。 どんな拒絶の言葉が飛んでくるのか。
しかし。
「行きたいです!!」
ドォォン!!
爆音。 鼓膜が破裂するかと思った。
彼女の口から放たれたのは、可憐な少女の声ではない。 壊れたスピーカーが、突然最大音量でハウリングを起こしたような、物理的な衝撃波。
「私、行きたいですッ! 連れて行ってくださいッ!!」
絶叫。 喉の粘膜が擦り切れ、血の味が混じっているであろう、悲痛な叫び。
それは「はい」という肯定ではない。 「ここではない何処かへ連れ出してくれ」という、魂の飢餓の発露。
彼女もまた、限界だったのだ。 「清楚で大人しい後輩」という窮屈な外皮の中で、窒息寸前だったのだ。
彼女が振り返る。 眼鏡の奥の瞳。 そこには、理性の光はない。 あるのは、暗い情熱と、私と同じ「共犯者」の目。
カチリ。
世界が噛み合う音がした。 「恋愛」というジャンルが破棄され、「逃避行」という新たなプログラムが起動する。
「……乗れ」
私は短く告げた。 彼女は無言で頷き、マウンテンバイクのハンドルを握り直す。
私は走り出した。 彼女の自転車が、オレンジ色の残像を引いて追走してくる。
夜風が熱い。 冷え切っていた血液が、沸騰したように体内を循環し始める。
行くぞ。 まともな世界なんぞ、置き去りにして。
二つの影が、夜の闇へと溶けていった。




