――第 26 幕 距離感のバグとスピーカーフォンの悲劇――
ジャリ。
靴底が小石を踏み砕く。 その乾いた破砕音が、深夜の校庭において、爆音となって鼓膜を揺らす。
私は歩く。 足取りがおかしい。 先ほど捨てた「恋文」の分だけ体重が軽くなり、加えてアルコールが小脳の平衡感覚を麻痺させている。 左右に揺れる、ペンギンのような歩行。
視界の中心。 スポットライトのような月光の下、ブランコに座る彼女がいる。
距離、あと五メートル。
おかしい。 一歩踏み出すたびに、彼女の輪郭が急激に拡大したり、逆に遠ざかったりする。 空間座標が安定しない。 私の網膜が、彼女という「特異点」の質量を処理しきれず、遠近感のバグを起こしているのだ。
ジャリ、ジャリ。
彼女が顔を上げる。 眼鏡のレンズが、白い月を反射して光る。 表情は見えない。だが、逃げない。
私は、彼女の隣にある無人のブランコへ向かった。
座る。 ゴム製の座面が、冷たく硬い。 錆びついた鎖が、体重を支えきれずに悲鳴を上げる。
キィィ……。
不快な金属音。 それが、私たちの間に流れる沈黙を鋭利に切り裂く。
近い。 いや、遠いのか? 隣に座っているはずなのに、彼女との間には透明な断絶があるようにも、肌が触れ合うほど密着しているようにも感じる。
空間識失調。
私は、ポケットの中の「熱源」を握りしめた。 コーンポタージュの缶。 第24幕で無意識に入手した、この物語における唯一の武器。
取り出す。 赤いスチール缶。 その表面には、私の手汗と、自販機の取り出し口で付着した鉄錆の臭いが染み付いている。
「……飲む?」
声が出た。 私の声ではないようだ。喉の奥から、乾いた砂がこぼれ落ちたような音。
私は右手を突き出した。 距離感が掴めない。 腕がゴムのように伸びていく錯覚。
彼女が動く。 白い手が、闇の中から伸びてくる。
指先が触れた。
ビクリ。
電流。 静電気ではない。 彼女の指先が、物理的にありえないほど「冷たい」ことへの生理的ショック。 陶器。あるいは、ドライアイス。 生物的な体温が欠落している。
「……あ、ありがとうございます。です」
彼女が缶を受け取る。 その瞬間、私の掌に残っていた熱量が、彼女の冷たい指先へと急速に熱伝導していく。
世界の色温度が変わる。 青白かった月光が、少しだけ暖色を帯びる。
通じた。 言葉はいらない。 この安っぽいスープ缶を介した熱交換こそが、私たちを繋ぐ物理的な回線だ。
プシュ。
彼女がプルタブを開ける。 甘ったるいコーンの香りが、夜の冷気の中に漂い、鉄の臭いを中和していく。
良い空気だ。 世界が、この半径二メートルの空間を「聖域」として承認しようとしている。
その時。
ブーッ! ブーッ!
私の太腿が、暴力的に振動した。
ビクッ。 心臓が跳ねる。 ポケットの中のスマートフォン。 この静寂においては、それは着信バイブなどという生易しいものではない。 肉体を内側から揺さぶる、敵意を持った削岩機だ。
無視しろ。 脳が警報を鳴らす。 だが、アルコールで鈍った指先は、条件反射でポケットへ潜り込んでしまう。
画面を見る。 『早川』。
消えろ。 今は来るな。
私は拒絶しようとして、親指をスライドさせた。
しかし。 脂汗で滑った指先は、「通話」ボタンではなく、その横にあるアイコンを正確にタップしていた。
スピーカー・オン。
その瞬間。
『お前、今何処に居るんや!!』
ドォォォン!!
爆音。 スマートフォンの小さなスピーカーから出力されたとは思えない、物理的な衝撃波。
静寂な校庭の空気が、ビリビリと震えた。 早川の怒号。 それは音声データではない。 居酒屋の喧騒、油の臭い、彼の体熱といった「薄汚れた現実」を圧縮して詰め込んだ、音響兵器。
「ひっ」
隣で、彼女が短く悲鳴を上げた。 肩が跳ねる。 持っていたスープ缶から、黄色い液体が少しだけこぼれ、彼女の黒いダッフルコートにシミを作る。
『おーい! 聞こえとんのか! こっちはもう終わるぞ!』
無慈悲な大音量。 ハウリング混じりの関西弁が、校舎の壁に反響し、増幅されて戻ってくる。
終わった。 空気が死んだ。
さっきまで醸成されていた「二人だけの世界」は、このデジタルの暴力によって、見る影もなく粉砕された。 ガラス細工をハンマーで叩き割ったような、取り返しのつかない破壊。
私は慌てて端末を握りつぶそうとするが、早川の声は止まらない。
『アホかお前は! 戻ってこい!』
「……あ、あう」
私はパクパクと口を開閉させる。 言葉が出ない。 あまりの恥辱とパニックで、言語野がショートしている。
彼女を見る。 彼女は、こぼれたスープのシミを呆然と見つめ、そしてゆっくりと立ち上がった。
キィ。 ブランコが揺れる。
その瞳から、先ほどの「熱」が急速に失われていく。 警戒。拒絶。そして、軽蔑。
私の手の中にあるスマホだけが、まだギャアギャアと喚き続けている。 それは、私がこの世界の「主人公」ではなく、ただの「痛い道化」であることを証明するBGMとして、残酷なほど高らかに響き渡っていた。




