↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

27/55

――第 26 幕 距離感のバグとスピーカーフォンの悲劇――

 ジャリ。

 靴底が小石を踏み砕く。 その乾いた破砕音が、深夜の校庭において、爆音となって鼓膜を揺らす。

 私は歩く。 足取りがおかしい。 先ほど捨てた「恋文(エゴ)」の分だけ体重が軽くなり、加えてアルコールが小脳の平衡感覚を麻痺させている。 左右に揺れる、ペンギンのような歩行。

 視界の中心。 スポットライトのような月光の下、ブランコに座る彼女がいる。

 距離、あと五メートル。

 おかしい。 一歩踏み出すたびに、彼女の輪郭が急激に拡大したり、逆に遠ざかったりする。 空間座標《スペース・コーディネート》が安定しない。 私の網膜(もうまく)が、彼女という「特異点」の質量を処理しきれず、遠近感のバグを起こしているのだ。

 ジャリ、ジャリ。

 彼女が顔を上げる。 眼鏡のレンズが、白い月を反射して光る。 表情は見えない。だが、逃げない。

 私は、彼女の隣にある無人のブランコへ向かった。

 座る。 ゴム製の座面が、冷たく硬い。 錆びついた鎖が、体重を支えきれずに悲鳴を上げる。

 キィィ……。

 不快な金属音。 それが、私たちの間に流れる沈黙を鋭利に切り裂く。

 近い。 いや、遠いのか? 隣に座っているはずなのに、彼女との間には透明な断絶(ギャップ)があるようにも、肌が触れ合うほど密着しているようにも感じる。

 空間識失調《スペーシャル・ディスオリエンテーション》。

 私は、ポケットの中の「熱源」を握りしめた。 コーンポタージュの缶。 第24幕で無意識に入手した、この物語における唯一の武器。

 取り出す。 赤いスチール缶。 その表面には、私の手汗と、自販機の取り出し口で付着した鉄錆の臭いが染み付いている。

「……飲む?」

 声が出た。 私の声ではないようだ。喉の奥から、乾いた砂がこぼれ落ちたような音。

 私は右手を突き出した。 距離感が掴めない。 腕がゴムのように伸びていく錯覚。

 彼女が動く。 白い手が、闇の中から伸びてくる。

 指先が触れた。

 ビクリ。

 電流(スパーク)。 静電気ではない。 彼女の指先が、物理的にありえないほど「冷たい」ことへの生理的ショック。 陶器。あるいは、ドライアイス。 生物的な体温が欠落している。

「……あ、ありがとうございます。です」

 彼女が缶を受け取る。 その瞬間、私の掌に残っていた熱量が、彼女の冷たい指先へと急速に熱伝導《ヒート・トランスファー》していく。

 世界の色温度が変わる。 青白かった月光が、少しだけ暖色を帯びる。

 通じた。 言葉はいらない。 この安っぽいスープ缶を介した熱交換こそが、私たちを繋ぐ物理的な回線だ。

 プシュ。

 彼女がプルタブを開ける。 甘ったるいコーンの香りが、夜の冷気の中に漂い、鉄の臭いを中和していく。

 良い空気だ。 世界が、この半径二メートルの空間を「聖域」として承認しようとしている。

 その時。

 ブーッ! ブーッ!

 私の太腿が、暴力的に振動した。

 ビクッ。 心臓が跳ねる。 ポケットの中のスマートフォン。 この静寂においては、それは着信バイブなどという生易しいものではない。 肉体を内側から揺さぶる、敵意を持った削岩機(ドリル)だ。

 無視しろ。 脳が警報を鳴らす。 だが、アルコールで鈍った指先は、条件反射でポケットへ潜り込んでしまう。

 画面を見る。 『早川』。

 消えろ。 今は来るな。

 私は拒絶しようとして、親指をスライドさせた。

 しかし。 脂汗で滑った指先は、「通話」ボタンではなく、その横にあるアイコンを正確にタップしていた。

 スピーカー・オン。

 その瞬間。

『お前、今何処に居るんや!!』

 ドォォォン!!

 爆音。 スマートフォンの小さなスピーカーから出力されたとは思えない、物理的な衝撃波。

 静寂な校庭の空気が、ビリビリと震えた。 早川の怒号。 それは音声データではない。 居酒屋の喧騒、油の臭い、彼の体熱といった「薄汚れた現実」を圧縮して詰め込んだ、音響兵器(ソニック・ウェポン)。

「ひっ」

 隣で、彼女が短く悲鳴を上げた。 肩が跳ねる。 持っていたスープ缶から、黄色い液体が少しだけこぼれ、彼女の黒いダッフルコートにシミを作る。

『おーい! 聞こえとんのか! こっちはもう終わるぞ!』

 無慈悲な大音量。 ハウリング混じりの関西弁が、校舎の壁に反響し、増幅されて戻ってくる。

 終わった。 空気が死んだ。

 さっきまで醸成されていた「二人だけの世界」は、このデジタルの暴力によって、見る影もなく粉砕された。 ガラス細工をハンマーで叩き割ったような、取り返しのつかない破壊。

 私は慌てて端末を握りつぶそうとするが、早川の声は止まらない。

『アホかお前は! 戻ってこい!』

「……あ、あう」

 私はパクパクと口を開閉させる。 言葉が出ない。 あまりの恥辱とパニックで、言語野がショートしている。

 彼女を見る。 彼女は、こぼれたスープのシミを呆然と見つめ、そしてゆっくりと立ち上がった。

 キィ。 ブランコが揺れる。

 その瞳から、先ほどの「熱」が急速に失われていく。 警戒。拒絶。そして、軽蔑(スコーン)。

 私の手の中にあるスマホだけが、まだギャアギャアと喚き続けている。 それは、私がこの世界の「主人公」ではなく、ただの「痛い道化」であることを証明するBGMとして、残酷なほど高らかに響き渡っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。