――第 25 幕 重力を持つ紙片とスポットライト――
足裏が砂利を噛む。 ジャリ、ジャリ。 乾いた音が、静まり返った校庭に暴力的な音量で響き渡る。
サークル棟の玄関ポーチ。 コンクリートの庇が作る深い影の中から、私はその光景を凝視していた。
約三十メートル先。 校庭の隅にあるブランコ。
そこだけ、世界の色が違う。 頭上の月が、まるで舞台装置のスポットライトのように、その一点だけを過剰な光量で照らし出している。 周囲の闇が濃い分、その白さは眼球を刺すほど鋭利だ。
風はない。 だというのに、二つ並んだブランコの左側だけが、キィ、キィ、と微かな金属音を立てて揺れている。 物理法則を無視した、不規則な振動。
その座面に、「それ」はいた。
黒髪の少女。 彼女は背を丸め、錆びた鎖を両手で握りしめ、月を見上げている。 その輪郭は、昼間に見るよりも遥かに鮮明で、背景の闇から切り抜かれたかのように際立っている。
ドクン。
心臓が、肋骨を裏側から殴りつける。 手に持ったコーンスープの缶が、指の震えに合わせてチャプチャプと中身を揺らす。 まだ温かい。 その安っぽい鉄とコーンの熱だけが、私の意識を現実に繋ぎ止めている。
行かなければならない。 今、この瞬間を逃せば、私の物語は永久に「未完」のまま、この闇の中で腐敗していく。
私は、ダッフルコートの右ポケットに手を突っ込んだ。
指先に触れる、一枚の封筒。 その瞬間。
ズシリ。
右肩が、物理的に沈み込んだ。
重い。 紙ではない。 鉛のインゴットか、あるいはブラックホールの破片でも掴まされたような、異常な質量。
取り出す。 白い長形3号の封筒。 中に入っているのは、便箋二枚分のインクの染みだ。 何日もかけて推敲し、比喩を練り上げ、私の自意識と防衛本能を過積載するまで詰め込んだ、完璧な「脚本」。
これが、重い。 私の指の関節が、ミシミシと音を立てて悲鳴を上げている。
冷や汗が背中を伝う。 これを渡すのか? この、物理的に持ち上がらないほどの「エゴの塊」を、あの華奢な少女に押し付けるのか?
想像する。 彼女がこれを受け取った瞬間の、表情の凍結。 そして、その重さに耐えきれず、ブランコごと圧し潰される光景。
「……要らないな」
喉の奥から、乾いた砂のような呟きが漏れた。
今の私に必要なのは、推敲された言葉ではない。 この異常な世界で、彼女と同じ「バグ」を共有するための、生身の接触だ。
私は、右手に力を込めた。
クシャリ。
封筒が潰れる音。 中の便箋ごと、硬い球体へと圧縮していく。 指先が白くなる。爪が紙を食い破り、掌に突き刺さる。
振りかぶる。 ターゲットは、私の背後に広がる、サークル棟の真っ暗な玄関ホール。 過去の遺物を廃棄するための、巨大なゴミ箱。
「……ッ!」
腕を振る。 筋肉が断裂しそうな負荷。
白い塊が、指先から離れた。
ヒュン。
それは放物線を描いて闇の中へ吸い込まれ――
…………。
音がない。 床に落ちる音も、壁に当たる音もしない。 まるで、事象の地平線の彼方へ消滅したかのように、完全な無音。
その瞬間。
フワッ。
体が浮いた。 重力係数が書き換わった。 私を地面に縫い付けていた「自意識」という名の重りが消滅し、肉体が風船のように軽くなる。
足を踏み出す。 軽い。 ペンギンのように、あるいは月面を歩く宇宙飛行士のように、頼りない足取りで地面を蹴る。
ジャリ……ジャリ……。
先ほどまでの重苦しい足音とは違う、浮ついたリズム。
私は歩き出す。 光の中へ。 手に残された武器は、自販機で買った二本のコーンスープだけ。
鉄の臭いがする。 指先に染み付いた10円玉の臭いと、プルタブの冷たい感触。 それだけが、今の私に残された唯一の真実だ。
「……行くか」
誰に言うでもなく、私は業務連絡のように呟いた。 白い呼気が、スポットライトの光線の中へ溶けていく。
距離、あと二十メートル。 彼女はまだ、月を見上げている。 その横顔には、この世界の解像度を超えた、過剰なまでの寂寥感が張り付いていた。




