――第 23 幕 リセットされた泥酔者とヘルメットの拘束具――
「――あ、あの」
喉から絞り出した声は、ひどく掠れていた。 乾いた粘膜が擦れ合い、ザラリとした感触を残す。
彼女が振り返る。 黒い髪が動き、眼鏡のレンズがブックオフの白い照明を反射して光った。
焦点が合う。 あと数メートル。 この距離を詰めれば、私は彼女の領域(聖域)へ踏み込める。
その時だ。
ポポポポポポ……。
間の抜けた破裂音が、背後から鼓膜を叩いた。 低周波の振動が、床のリノリウムを伝わって足裏を痺れさせる。
異音。 店内のBGMでも、空調の音でもない。 もっと暴力的で、物理的な内燃機関の駆動音。
「ヤッホー。奇遇だね」
心臓が、肋骨の裏側で氷結した。
この声。 この、脳髄を直接撫で回すような、独特の周波数。
恐る恐る振り返る。 自動ドアの向こう。ガラス越しに、「それ」はいた。
原付に跨る、マユミ先輩。
「……は?」
思考回路がショートする。 脳内の処理速度が、目の前の現実(映像データ)に追いつかない。
おかしい。 物理的に、ありえない。
ほんの一時間前。 彼女は私の背中で、世界の重力を一身に集めた「鉛の死体」と化していたはずだ。 久野先生の車に廃棄され、教員宿舎へ運ばれていったはずだ。
だというのに。
自動ドアが開く。 ウィーン。
彼女は、店内に侵入する勢いで、原付の前輪をマットに乗り上げさせた。
排気ガスの臭い。 焦げたオイルとガソリンの揮発臭が、店内の古紙の匂いを強引に上書きしていく。
「何してんの? 行くよ」
彼女は笑っていた。 その顔には、先ほどまでの泥酔の痕跡――赤ら顔、濁った瞳、弛緩した筋肉――が、一切ない。
初期化。
肌は陶器のように白く、滑らかだ。 瞳はガラス玉のように澄んでいるが、奥底には何の感情も映っていない。 アルコール臭もしない。 まるで、工場から出荷されたばかりの新品のロボットのように、不自然なほど清潔で、そして無機質だ。
生理的な拒絶反応。 胃の腑から酸っぱい液がせり上がり、喉を焼く。
怖い。 ゾンビの方がまだマシだ。ゾンビには「死んでいる」という理屈がある。 だが、今の彼女には、生物としての連続性が欠落している。
「いや、私は……」
抵抗しようと口を開く。 視線を戻す。 棚の向こうには、まだ彼女がいる。 オレンジ色の光。私の希望。
「つべこべ言わない」
ヒュン。
風を切る音。 目の前に、黒い塊が飛来した。
ドスッ。
腹部に鈍い衝撃。 反射的に抱え込む。
ヘルメットだ。 半帽型の、安っぽいプラスチックの塊。 内側のスポンジからは、整髪料と他人の汗が酸化した、鼻をつく脂の臭いが漂っている。
「被りな。飲み直すよ」
拒否権はない。 彼女の言葉は、提案ではなく、システム上の絶対命令だ。
ヘルメットが重い。 ただの樹脂と発泡スチロールのはずなのに、手首が悲鳴を上げるほどの質量を感じる。 これは物理的な重量ではない。 この場から離脱し、終わらない夜(泥沼)へと再接続するための「契約」の重さだ。
「……勘弁してください」 「あ?」
マユミ先輩の瞳孔が開く。 爬虫類のような、瞬きのない凝視。
逆らえない。 この「理不尽なバグ」の前では、私のささやかな自由意志など、塵のように吹き飛ばされる。
私は震える手で、ヘルメットを被った。 視界が狭まる。 左右が遮断され、目の前にはマユミ先輩の無機質な笑顔だけが切り取られる。
ガチャリ。
顎紐のバックルを留める音が、独房の鍵をかけられる音のように、乾いて響いた。
窒息感。 汗と脂の臭いが鼻腔を満たす。
私は、最後にもう一度だけ振り返ろうとした。 あのオレンジ色の光を、網膜に焼き付けるために。
「ほら、後ろ乗って」
グイと腕を引かれる。 強い力。 華奢な腕のどこに、これほどのトルクが潜んでいるのか。
引きずられる。 靴底がアスファルトを擦り、情けない摩擦音を立てる。
原付のシートに跨る。 エンジンの振動が、股間を通して直腸を揺らす。 不快だ。 生物的で、下品な振動。
「しっかり捕まってなー!」
マユミ先輩がスロットルを回す。 ブオォォォォン! 排気管が、汚い咳のような爆音を吐き出す。
Gがかかる。 風景が後方へと流れ去る。
ブックオフの白い光が、遠ざかる。 その光の中に、ヒロインの姿が溶けて消えていく。
さようなら。 私の、一瞬の覚醒。
風が冷たい。 ヘルメットの隙間から入り込む夜風が、涙で濡れた目尻を冷やしていく。
私は、前を行くマユミ先輩の腰に手を回した。 その背中は、やはり体温を感じさせないほど冷たく、そして硬かった。




