――第 22 幕 古紙の迷宮と熱を放つオレンジ――
急ブレーキ。 スニーカーのソールが、駐車場のアスファルトを削り取る。
ザザザッ。
摩擦熱。 足裏から伝わる熱さが、凍てついた夜気の中で唯一の現実感だ。
土佐道路沿い、ブックオフ。 巨大なガラス張りの棺桶のような店舗が、過剰な光量で夜の闇を抉り取っている。
肺が、収縮と拡張を痙攣的に繰り返す。 ヒュー、ヒュー。 喉の奥で、鉄の味がする。気管支が冷気で凍りつき、内側からひび割れている感覚。
私は顔を上げる。 白い蛍光灯の光が、レーザーのように網膜を焼く。
駐輪場。 無造作に並べられた自転車の列。 その中に、「それ」はあった。
異常だ。 周囲の自転車が、夜闇に溶けて灰色の鉄塊になり下がっている中で、その一台だけが、物理的にありえない彩度を放っている。
オレンジ色。 溶鉱炉から汲み出したばかりの、ドロドロに溶けた鉄のような色彩。 そこだけ空間が歪み、陽炎のような熱気を発している。
彼女のマウンテンバイク。
「……いた」
口から漏れたのは言葉ではない。 肺に残っていた、熱い炭酸ガスだ。
間違いない。 ここに、彼女がいる。
私は店舗へ向かう。 自動ドアのセンサーが反応する。
ウィーン。
間の抜けた電子音と共に、ガラスの扉が開く。 その瞬間、古紙特有の乾いた埃の臭いと、暖房の生温かい風が、粘膜にへばりつく。
店内。 物語の墓場。 誰かに消費され、手垢にまみれ、読み捨てられた何万冊もの紙束が、壁となって屹立している。
眩しい。 影を許さない無慈悲な白色光。 床のリノリウムは、ワックスと靴底の汚れで幾何学模様を描いている。
『いらっしゃいませ。ポポポポ……』
天井のスピーカーから、テープが伸びきったような自動音声が降ってくる。 壊れたレコード。 あるいは、思考を阻害するためのジャミング信号。
私は、息を潜めて通路を進む。 心臓が、肋骨の裏側をノックする。 ドクン、ドクン。 その振動が、骨伝導で頭蓋骨に響き、店内のBGM――安っぽいオルゴール調のJ-POP――を掻き消していく。
コミックコーナー。文庫コーナー。 いない。
さらに奥へ。 100円コーナーの棚の向こう側。
空気が、変わった。
そこだけ、音が消失している。 店内の喧騒も、自動音声も、空調の唸りも、見えない防壁によって遮断されている。
真空。
その静寂の中心に、彼女は立っていた。
黒いダッフルコート。 長い髪が、蛍光灯の光を吸い込んで、濡れた烏の羽のように黒く沈んでいる。 手には一冊の文庫本。
彼女の周囲だけ、時間の流れる速度が違う。 ページをめくる指先。 その動作の一つ一つが、スローモーションのように滑らかで、そして決定的にこの世界から浮いている。
美しい、のではない。 解像度が高すぎるのだ。 背景の棚に並ぶ本が、ドットの粗いテクスチャに見えるほどに、彼女の輪郭だけが鋭利な刃物のように際立っている。
息が止まる。 近づかなければならない。 だが、足が動かない。
この完璧な静止画の中に、私という「ノイズ」が侵入してもよいものか。 汗と泥にまみれ、鉄の味のする息を吐く私が、この聖域を踏み荒らしてよいものか。
躊躇。 スニーカーの底が、床のワックスに吸い付いて離れない。
彼女が、ふと顔を上げる。 眼鏡のレンズが、白く光った。
視線が合う。 いや、彼女が見ているのは私ではない。 私の背後にある虚空か、あるいは物語の続きか。
ドクン。
心臓が、限界を超えて跳ねた。 喉が張り付く。
声をかけろ。 名前を呼べ。
思考するよりも先に、私の身体が勝手に一歩を踏み出していた。 キュッ。 静寂を切り裂く、情けない摩擦音。
賽は投げられた。 もう、後戻りはできない。




