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――第 21 幕 オレンジ色の彗星と重力からの解放――

 チリチリチリ……。

 乾いた金属音が、鼓膜の奥を微かに引っ掻いた。

 視界の端。 闇に沈んだアスファルトの上を、鋭利な光線が横切る。

 オレンジ色。 溶けた鉄のような、暴力的な熱量を持った残像。

 脳の処理速度が追いつかない。 網膜に焼き付いたその色彩データが、視神経を逆流し、前頭葉でスパークするまでにコンマ数秒のラグが生じる。

 あれは。

 マウンテンバイク。 独特のブロックタイヤが、凍てついた路面を噛む音。

 そして、その上に跨るシルエット。 黒い髪が、夜風に煽られて生き物のように膨れ上がっている。

 ドクン。

 心臓が、肋骨を裏側からハンマーで殴打した。

 彼女だ。 この深夜、この極寒の路上に、彼女がいる。

 その事実が認識された瞬間、私の肉体に異変が起きた。

 シュウゥゥ……。

 血管の中を循環していたアルコールが、一瞬にして気化(きか)した。 マユミ先輩の呪いも、久野先生の拘束も、アンナの説教も、すべてが物理的な質量を失い、蒸発していく。

 酔いが冷めるのではない。 強制的な覚醒(リブート)

 視界がクリアになる。 水銀灯の明滅、路上の小石の影、吐き出す息の白さ。 世界の解像度が、異常な数値まで跳ね上がる。

「……ッ」

 声にならない呼気が漏れる。

 思考はいらない。 論理も、理由も、言い訳も、今の私には不要なノイズだ。

 あるのは、逃げていくオレンジ色の光点に対する、純粋な走性(そうせい)のみ。

 一歩、踏み出す。

 軽い。 あれほど重かった肉体が、嘘のように軽い。 まるで、地球の重力係数がここだけ書き換えられたかのように、体が浮き上がる。

 ダッ。

 スニーカーのソールが、アスファルトを蹴りつけた。 摩擦熱。 冷たい夜気が、熱を持った頬を切り裂いて後方へと流れていく。

 走る。 ただひたすらに、あの光を追う。

 フォームなど関係ない。 腕を振り回し、顎を上げ、獣のように地面を掻く。

 肺が冷気で焼ける。 気管支が収縮し、ヒューヒューという風切り音が喉の奥から鳴る。 だが、それは苦痛ではない。 私が「生きている」ことを証明する、エンジンの駆動音だ。

 待て。 行くな。

 言葉にはしない。 音にした瞬間、この強烈な衝動(インパルス)が、陳腐な「青春」へと劣化してしまう気がした。

 前方の信号が赤に変わる。 自転車のテールランプが、残像を残して交差点を突破していく。

 無視だ。 交通ルールなど、今の私を縛る鎖にはなり得ない。

 私は赤信号の下を突き抜ける。 左右から迫る車のヘッドライトが、クラクションという名の怒号を浴びせてくるが、それすらも心地よいBGMに過ぎない。

 速い。 彼女の自転車は、流星のように闇を切り裂いて遠ざかっていく。

 だが、逃がさない。 私の網膜には、オレンジ色の軌跡が灼熱のワイヤーとなって焼き付いている。 その線をたぐる。 手繰り寄せ、必ずその実体を捕獲する。

 汗が噴き出す。 冷たい風の中で、体温だけが異常上昇を続けている。

 行け。 追いつけ。

 私は、夜の底へ向かって加速した。

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