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――第 20 幕 バックミラーの法廷と逃げた被告人――

 密室の気圧が、異常な値を示している。

 トヨタ・RAV4の後部座席。 分厚いガラスと防音材によって外界から遮断された空間は、芳香剤の強烈なシトラス臭で満たされている。 人工的で、どこか薬品めいた柑橘系の香り。 それが、私の隣で死体のように転がっているマユミ先輩の呼気――酸化したアルコール臭――を、化学的な力で強引に中和しようとせり合っている。

 息が詰まる。 肺の奥が、化学物質の刺激でチリチリと痛む。

「…………」

 沈黙。 誰も口を開かない。 エンジン音と、タイヤがアスファルトを噛むロードノイズだけが、重苦しい低周波となって床下から響いてくる。

 視線を上げる。 バックミラー。

 目が合った。

 ミラーの長方形のフレームの中に、アンナの瞳だけが切り取られている。 対向車のヘッドライトが流れるたび、その瞳が爬虫類のように鋭く光り、そして闇に沈む。

 熱い。 視線という概念を超えた、物理的な熱源。 その焦点は、間違いなく私の眉間を凝視(ロックオン)している。

 彼女は怒っているのではない。 「私を置いて逃げた」という事実に対し、無言の断罪(ジャッジ)を下しているのだ。

 レーザーのような眼光が、私の脳髄を焼き、思考を麻痺させる。 言い訳など許されない。 私はただ、シートの皮の感触に背中を押し付け、その処刑執行を待つしかない被告人だ。

 ガクン。

 慣性が働き、体が前のめりになる。 車が止まった。

 教員宿舎。 コンクリート造りの無機質な建物が、夜霧の中にぼんやりと浮かび上がっている。 水銀灯の光が滲み、世界全体の解像度が落ちているように見える。

「着いたよ」

 久野先生の声だけが、場違いに明るく響く。 彼はサイドブレーキを引き、ルームランプを点灯させた。

 カチッ。

 突然の明転。 網膜が焼ける。

「……降ります」

 私は逃げるようにドアノブを引いた。 外の冷気。 肺の中に、ようやく「酸素」が戻ってくる。

 マユミ先輩を引きずり出す。 彼女はまだ、鉛のように重い。 先生の手を借りて、なんとかその肉塊を車外へと排出した。

 その時。

「おや」

 先生が声を上げた。 視線の先。 宿舎のエントランスの前に、人影がある。

 白シャツ。 サスペンダー。 そして、闇の中で白く光る丸眼鏡。

 ジンだ。 彼は、この霧に包まれた曖昧な風景の中で、一人だけ切り抜かれたように輪郭が鮮明だ。 汚れ一つないその姿は、この泥臭い現実から浮いている。

「どうして、此処に……」

 私が呟くよりも早く、車内で「爆発」が起きた。

 バンッ!

 助手席のドアが、蝶番が悲鳴を上げるほどの勢いで開かれた。

 アンナだ。 彼女は車から飛び降りるなり、ヒールの音を高く鳴らしてジンの方へ駆け出した。

「ちょっと! 待ちなさいよ!」

 その声。 さっきまで私を縛り付けていた「絶対的な捕食者」の響きではない。 裏返り、震え、必死さを孕んだ、ただの「メス」の叫び。

 彼女の纏っていた「完璧な正論の鎧」が、ジンの姿を見た瞬間に、物理的に剥離(はくり)して落ちていく。

 ジンは一瞥(いちべつ)しただけだ。 まるで路傍の石を見るような、関心のない目。 彼はアンナの叫びを、ただの環境音ノイズとして処理し、くるりと背を向けた。

「待ってってば! 誤解なの!」

 アンナが追いかける。 その背中は小さく、そして脆く見える。

 私には見せたことのない顔。 彼女もまた、誰かを追いかけ、拒絶され、それでも縋り付く「不完全な人間」でしかなかったのだ。

 二人の姿が、エントランスの自動ドアの向こうへ消えていく。 残されたのは、私と、ニコニコしている先生と、路上に放置されたマユミ先輩だけ。

「……なんだ」

 口から漏れたのは、安堵と、そして微かな侮蔑。

 お前もか。 お前も、こっち側の住人だったのか。

 最強の門番だと思っていた存在が、実は自分と同じ「満たされない飢餓」を抱えていた事実。 それは私を勇気付けると同時に、この世界の底知れない空虚さを突きつける。

 風が吹いた。 汗ばんだ首筋が、急速に冷やされていく。

 先生がマユミ先輩を抱え上げる。 「じゃあ、僕は彼女を部屋まで運ぶから。君はどうする?」

「……帰ります」

 嘘だ。 帰れるわけがない。 私の血管の中では、まだアルコールとアドレナリンが、出口を求めて暴れ回っている。

 先生が去る。 RAV4のテールランプが赤く滲んで消える。

 私は一人、夜の底に取り残された。 静寂。 耳鳴りがするほどの、完全な無音。

 ふと、視界の端を何かが横切った気がした。

 オレンジ色。 溶けた鉄のような、熱を帯びた残像。

 心臓が、肋骨を裏側から強く叩いた。

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