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――第 19 幕 鉛の天使とRAV4の霊柩車――

 脊椎(せきつい)がきしむ音が、頭蓋骨の内部で反響している。

 ミシミシ。ミシミシ。

 一歩踏み出すたびに、膝の皿が悲鳴を上げ、太腿の筋肉が断裂寸前まで引き伸ばされる。 重い。 物理的に、ありえない質量だ。

 私の背中には、マユミ先輩が張り付いている。 小柄な女性だ。標準体重なら、成人男性が背負って歩くのに支障はないはずだ。

 だが、今日の彼女は人間ではない。 居酒屋を出た瞬間、彼女の体積はそのままで、密度だけが中性子星のように圧縮された。 世界の重力を一身に集めた、高密度の鉛の塊。

「……うぅ」

 耳元で、湿った呻き声がする。 熱い吐息。 酸化したアルコールと、胃液の酸っぱい臭いが混ざり合った生暖かいガスが、私の首筋の粘膜(ねんまく)に直接噴射される。

 不快指数が限界値を振り切る。 汗が目に入る。塩辛い痛み。 視界が滲む。

 アスファルトに落ちた街灯の影が、粘着質なタールのように伸びている。 靴底が地面を離れるたびに、ベチャッという音がする。 重力が増大しているのか、地面が軟化しているのか。平衡感覚が機能しない。

「……まだか」

 喉の奥から絞り出した声は、誰にも届かない。 駐車場までの数百メートルが、無限に続く砂漠のように感じられる。

 前方。 闇を切り裂いて、二条の白い光柱が現れた。

 トヨタ・RAV4。 漆黒のボディ。 アイドリング音が、低い地鳴りのように腹の底に響く。

 久野先生の車だ。

「おーい、こっちだ」

 運転席の窓が開き、白いタオルを巻いた首が覗く。 先生だ。 真冬の夜気の中だというのに、彼の首元からは、やはり白い湯気がもうもうと立ち昇っている。

 私は、最後の力を振り絞って足を運んだ。 リアドアが開く。

「乗せてくれ。汚れてもいいシートだから」

 先生の声は爽やかだ。 私が背負っているのが「汚物」であることを、悪意なく肯定している。

 私は背中の「鉛」を、後部座席へ放り出した。

 ドサッ。

 人体がシートに沈み込む音ではない。 土嚢どのうか、死体を投げ捨てたような、鈍く重い着弾音。

 マユミ先輩は、シートの上でピクリとも動かない。 髪が乱れ、顔がシートの革に埋もれている。 完全な機能停止シャットダウン

「……ふぅ」

 荷を下ろした瞬間、浮遊感が襲った。 体が軽くなりすぎて、重力との接続が切れたような錯覚。 膝に手をつき、肺の中に溜まった熱気を吐き出す。

「君も乗りたまえ。送るよ」

 拒否権はない。 私は、死体が転がる後部座席の、わずかに空いたスペースへと体を滑り込ませた。

 バムッ。

 ドアが閉まる。 その瞬間、世界が遮断(カット)された。

 静寂。 外の風音も、遠くの道路の走行音も、分厚い鉄とガラスによって完全に消去された。

 代わりに鼻腔を満たすのは、強烈なシトラスの香り。 芳香剤だ。 人工的で、甘ったるく、そしてどこか薬品めいた臭気。 それが、マユミ先輩の発するアルコール臭を、化学的な力で中和しようとせめぎ合っている。

 真空(しんくう)のコックピット。 あるいは、遺体を搬送する霊柩車。

 車が滑るように動き出す。 タイヤが路面の凹凸を拾う振動だけが、微かに尻に伝わってくる。

 バックミラーを見る。 先生の目が映っている。 細められたその目は、後部座席の惨状を、ただの「配送業務」の一部として淡々と処理している。

「……重かったろう」

 先生がハンドルを切りながら言う。 労いの言葉ではない。物理的な事実の確認だ。

「……ええ」

 答えながら、私は自分の肩をさする。 まだ重い。 マユミ先輩を下ろしたはずなのに、その「質量」の記憶が、肩の筋肉繊維に幻痛として焼き付いている。

 隣を見る。 死体(先輩)は、規則正しい寝息を立てている。 その寝顔は、先ほどまでの「鉛の魔物」とは別人のように、無垢で、そして無機質だ。

 窓の外を街灯が流れていく。 光の縞模様が、車内を規則的に走査する。 明、暗、明、暗。

 私はシートに深く沈み込んだ。 この密室からは、逃げられない。 先生という「時間管理人」と、マユミ先輩という「カオス」に挟まれ、私はただの荷物として運ばれていく。

 行き先は教員宿舎。 そこには、もう一人の「門番」が待っているはずだ。

 胃の腑で、消化しきれない焼き鳥の脂が、冷たく凝固していくのを感じた。

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