――第 18 幕 古風な観測者と見抜かれた手品――
喉の奥で、芋焼酎の残り香が熱を持って燻っている。
勝利の余韻はない。 あるのは、能力を行使した反動による、後頭部を万力で締め上げられるような鈍痛と、指先の微細な痙攣だけだ。
早川はまだ、水没して死んだスマホを片手に、OBと馬鹿笑いをしている。 その姿が、急激に色あせて見える。 熱狂の温度が下がり、周囲の喧騒が、意味を持たない不協和音となって鼓膜を叩く。
「某にも、混ぜてはくれませぬか」
不意に。 左隣の空気が、ごっそりと入れ替わった。
焼き鳥の脂臭さも、タバコの煙も、その空間だけ切り取られたように消滅している。 真空。 あるいは、高性能な空気清浄機が、そこだけ稼働しているかのような、不自然な無臭。
私は、軋む首をゆっくりと回した。
そこに「それ」はいた。
糊の効いた白シャツ。 時代錯誤なサスペンダー。 そして、照明を反射して白く光る、真ん丸なレンズの眼鏡。
留学生、ジン。
彼は、周囲の泥酔した学生たちとは明らかに違う解像度で、そこに座っていた。 肌には脂汗一つなく、毛穴さえ存在しないかのような陶器の質感。
「……何の用だ」
警戒心が、背筋の産毛を逆立てる。
ジンは、手にしたジョッキを軽く掲げた。 中身はウーロン茶だ。 その茶色の液体でさえ、彼が持つと、実験室のビーカーに入った化学薬品のように見える。
「見事な手品でござったな」
彼は、独り言のように呟いた。 その視線は、私ではなく、テーブルの上に散乱したグラス――先ほど私が「水」に変えた残骸――に向けられている。
心臓が、肋骨を裏側から蹴り上げた。
「……何の話だ」 「御仁。酒を水に変えるなど、キリストでももう少し勿体ぶるものでござるよ」
ヒュッ。 喉の奥で、呼吸が凍りついた。
バレている。 あの混沌とした狂乱の中で、コイツだけが、私の起こした「物理法則の改竄」を正確に観測していたのだ。
私はジンを凝視する。 彼の眼鏡の奥。 レンズの白光の隙間から覗く瞳は、爬虫類のように細く、そして全く笑っていない。
瞬きがない。 一分、いや二分。 彼が眼球を乾燥から守るための生理反射を行っていないことに気づき、胃の腑が縮み上がる。
「魔法使いでござるか?」
口元だけが、三日月形に歪んだ。 左右対称すぎる笑み。 「不気味の谷」の底から這い上がってきたような、人間を模倣した何かの表情。
否定しなければならない。 「偶然だ」「酔っているのか」と笑い飛ばさなければならない。 だが、舌が上顎に張り付き、声帯が機能を放棄している。
怖い。 早川のような「熱い人間」ではない。 アンナのような「正しい人間」でもない。 コイツは、私と同じ「あちら側」の住人だ。
彼が、細く冷たい指先を伸ばしてくる。 私の肩に触れようとした、その時。
「何シケた面してんのよ!」
ドォン!
物理的な衝撃が、二人の間に割って入った。
マユミ先輩だ。 彼女は背後からジンの首にヘッドロックを決め、その全体重を浴びせかけた。
「飲むよ! アンタも飲むの!」 「む、無体な……某は下戸で……」
ジンの「仮面」が剥がれる。 冷静だった彼の表情が、物理的な苦痛と、想定外のカオスに対する困惑で崩れる。
「うるさい! 飲め!」
マユミ先輩が、ジンのウーロン茶を奪い取り、代わりに焼酎の入ったグラスを口元へ押し付ける。 酒がこぼれ、ジンの白シャツに茶色いシミを作る。
「あぁ……」
ジンが情けない声を上げる。 その瞬間、彼が纏っていた「真空の結界」が霧散し、居酒屋の湿った空気が雪崩れ込んできた。
助かった。 私は大きく息を吐き出した。 肺の中に、焼き鳥の煙と、マユミ先輩の汗の臭いが満ちていく。 不快だ。だが、その不快さが、今はたまらなく愛おしい。
ジンが私を見る。 その目は、もう爬虫類のそれではない。 ただの、酔っ払いに絡まれた哀れな留学生の目だ。
だが、私は知っている。 シャツの汚れを拭きながら、彼が一度だけ、ニヤリと口角を上げたのを。
「……興味深い」
その呟きは、喧騒にかき消された。 しかし、私の耳には、こめかみに埋め込まれた盗聴器のノイズのように、確かにこびりついて離れなかった。
ターゲットロック。 私は、この異邦人に「観測対象」として登録されたのだ。
テーブルの下で、私は震える指先を親指の爪で強く押し潰した。 痛みだけが、この不気味な視線から逃れるための、唯一のアンカーだった。




