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――第 17 幕 水没するスマホとインチキな勝利――

 テーブルの上が、海になっている。

 こぼれたビール、焼酎、溶けた氷、そして誰かの唾液。 それらが混ざり合い、表面張力の限界を超えて決壊し、木目の天板を浸食(しんしょく)している。 割り箸の袋が、難破船のように漂っている。

「白黒つけようやないかい!」

 怒号。 早川だ。 彼の顔面は、熟れすぎたトマトのように赤黒く鬱血(うっけつ)し、膨張しているように見える。

 対面に座るのは、OBと呼ばれる肉の壁。 安っぽいスーツの光沢。脂ぎった額。 彼が口を開くたびに、腐ったアルコールとニンニクの臭気が、換気扇の気流を無視してこちらへ漂ってくる。

 飲み比べ。 知性の欠片もない、原始的な儀式。

「いくで! レディ、ゴー!」

 マユミ先輩の掛け声と共に、二人がジョッキを掴む。 中身は、ストレートの芋焼酎。 透明な毒液。

 ゴク、ゴク、ゴク。

 喉仏が上下する音。液体が食道を通過する音が、生々しいサラウンドで響く。

 私は、ぼんやりとした視界でそれを見ていた。 早川が苦しげに顔を歪める。 ペースが落ちる。 負ける。

 嫌だ。 私の友人が、あんな肉塊に負ける姿など見たくない。 私の世界において、彼は「頼れる盟友」でなければならないのだ。

 勝て。 手段は問わない。

 私は、早川の手元にあるジョッキを凝視した。 視線を、レーザーのように一点に絞る。

 分子配列を書き換えろ。 毒を抜け。

 念じる。 こめかみの血管がブチブチと音を立ててきしむ。

 その瞬間。

 フッ。

 世界から、早川のジョッキ周辺の「深度」が消えた。

 液体の揺らぎが変わる。 粘度が下がる。 揮発性の刺激臭が、一瞬にして消失し、無機質な水素と酸素の結合体へと変質(シフト)した。

 水。 ただの、ぬるい水。

「ぷはぁっ!」

 早川がジョッキを叩きつける。 空だ。 彼は何食わぬ顔で、口元の雫を手の甲で拭った。

「美味い!」

 気づいていない。 アルコールが完全に抜かれた「虚無の液体」を摂取したことに、彼の鈍感(ニブ)い味覚は反応しない。

「……な、なんやて」

 OBが目を白黒させている。 彼のジョッキはまだ半分も残っている。 その顔色は土気色に変わり、口の端から泡のようなよだれが漏れている。

 勝負あり。 私のシナリオ通りだ。

 口元が歪む。 全能感。 私は神だ。この薄汚れた居酒屋の物理法則を支配する、唯一の王だ。

 だが。

 ボコッ。

 奇妙な水音が、テーブルの上から響いた。

 視線を落とす。 天板を覆っていた「酒の海」が、物理法則を無視して波打っている。 地震ではない。 誰かがテーブルを揺らしたわけでもない。

 私の行った「質量操作」の反動(しわ寄せ)が、この卓上の液体力学に歪みを生じさせたのだ。

 波が、襲いかかる。 ターゲットは、テーブルの端に置かれた黒い板。

 早川のスマートフォン。

「あ」

 声を出す間もなかった。

 ズブブブブ……。

 粘着質な液体が、スマートフォンの充電端子とスピーカーの穴へ、生き物のように侵入していく。 逃げ場はない。 黒い画面が一瞬だけ白く発光し、そして虹色のノイズを走らせた。

 電子回路が断末魔を上げる音。 ジジッ、プツン。

 完全な沈黙。 情報の死。

「あぁ! 俺のスマホが!」

 早川が叫ぶ。 彼は慌てて端末を拾い上げ、振る。 ポタポタと、茶色い液体が滴り落ちる。

「最悪や……これ、データ全部飛んだんちゃうか」

 彼は嘆く。 だが、その顔は笑っている。 「これも武勇伝や」とでも言いたげな、能天気な笑顔。

 彼は知らない。 それが単なる事故ではなく、彼が勝利を得るために支払わされた「等価交換」の代償であることを。

 私は、自分の指先を見た。 震えている。 爪の間が、冷たく湿っている気がする。

 早川との連絡手段(通信)が、物理的に破壊された。 それは、私と彼を繋いでいた細い糸が、一本プツリと切れたことを意味していた。

 周囲の歓声が遠のく。 水没したスマホの画面は、もう二度と光ることはない。 ただの濡れた黒いプラスチックの塊として、そこに死体のように横たわっている。

「……勝ったな」

 私は誰にともなく呟き、自分のグラスに残った「本物の酒」を煽った。 喉が焼ける。 この痛みだけが、私がまだこちら側の世界に踏みとどまっている唯一の証拠だ。

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