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――第 16 幕 バベルの酒瓶と重力のエラー――

 視界が白い。

 焼き鳥を焼く煙が、換気扇の処理能力を超えて充満している。 脂の焼ける臭いと、タバコの紫煙、そしてアルコールの揮発した甘い刺激臭が、粘度のある大気となって肺を満たす。

 居酒屋「やきにわとりの助」。 古い畳の座敷席。 湿気を吸って重くなった座布団の上に、私は沈み込んでいる。

「次! 『美丈夫《びじょうふ》』! いや、『酔鯨《すいげい》』持ってきて!」

 隣で、怪獣が吠えた。 マユミ先輩だ。 彼女はすでに「人間」の輪郭を保っていない。 赤ら顔で、髪を振り乱し、テーブルをバンバンと叩くその姿は、高知の伝説に出てくる酒呑み妖怪そのものだ。

「へごながぁが! あいつほんま、へごな男やわ!」

 意味不明な方言の絶叫。 鼓膜がビリビリと震える。 彼女の口から飛び散る唾液の飛沫(しぶき)が、蛍光灯の光を浴びてキラキラと輝いている。

 汚い。 だが、今の私には、その汚れすらも心地よい。

 手元のグラスを煽る。 『司牡丹《つかさぼたん》』の冷や。 喉の粘膜(ねんまく)を焼き、胃の腑へと落ちていく熱い塊。

 もっとだ。 もっと飲まなければ、あのカラオケボックスでの惨めな記憶――開かなかったファスナーと、腐りかけた玉子焼きの感触――を消去できない。

 ドン。

 目の前に、空になった一升瓶が置かれた。 マユミ先輩だ。 彼女は虚ろな目で、テーブルの上に林立する空き瓶を眺めている。

 緑、茶色、透明。 ガラスの墓標たち。

「……積むか」

 彼女が呟く。 酔っ払いの気まぐれだ。 彼女は震える手で、空き瓶の上に、別の空き瓶を逆さに乗せ始めた。

 カチン。

 硬質なガラス音が響く。 瓶の口と口が重なる、不安定な一点支持。

 一本。二本。三本。

 異常だ。 物理的に考えて、そんな積み方が成立するはずがない。 重心が狂っている。 一番上の瓶は、明らかに中心軸からズレており、今にも崩落しそうな角度で傾いている。

「あ、危ない!」

 向かいの席の早川が叫ぶ。 彼は反射的に手を伸ばし、崩れる瓶を支えようとする。

 しかし。

 私はぼんやりとした頭で、その光景を見ていた。 倒れるな。 倒れたら、片付けるのが面倒だ。 私の世界を、これ以上散らかすな。

 強く、念じる。

 ピタリ。

 世界から、揺らぎ(ノイズ)が消えた。

 グラグラと揺れていた瓶の塔が、空中で凍りついたように静止した。

「……え?」

 早川の手が止まる。 周囲の喧騒が一瞬だけ遠のく。

 バベル(・・)の塔。

 五本の酒瓶が、互い違いに積み上げられ、ピサの斜塔よりも鋭角に傾いたまま、微動だにせずに立っている。 接着剤も、支えもない。 ただ、そこにある「重力」という概念だけが、私のエゴによって書き換えられている。

「なんやこれ……接着されとるんか?」

 早川がおそるおそる指先で突く。 瓶は動かない。 まるで、空間そのものに溶接されたかのように、その座標に固定されている。

「……芸術だ」

 口をついて出たのは、朝、玉子焼きを作った時と同じ台詞。 私の感覚は麻痺している。 この異常な光景を「奇跡」ではなく、「当然の結果」として処理している。

「すごーい! 私の才能!」

 マユミ先輩が手を叩いて喜ぶ。 その拍手の振動でも、塔は崩れない。

 通りがかった店員が、ギョッとして足を止めた。 「お、お客さん、危ないですよ」 店員が慌てて塔を解体しようと手を伸ばす。

 その瞬間。

 バチッ。

 静電気が弾けるような音がした。 店員が「痛っ」と手を引っ込める。

 物理的な拒絶(リジェクト)。 この塔は、私の観測下にある限り、何者にも干渉されない「聖域」なのだ。

「触るな。崩れるぞ」

 私は低い声で言った。 店員は気味悪そうに後ずさり、逃げるように去っていった。

 再び、喧騒が戻る。 マユミ先輩の笑い声。早川の呆れ顔。焼き鳥の煙。

 私はグラスに残った酒を飲み干した。 視界が歪む。 目の前の傾いた塔が、私自身の姿に見えた。

 危ういバランスで辛うじて立っている、中身のないガラスの器。 それが今の私だ。

「次! 酒持ってこーい!」

 私は叫んだ。 喉の奥から、鉄錆のような味がせり上がってくるのを、新しいアルコールで強引に押し流す。

 まだだ。 まだ、夜は終わらない。 この重力のエラーが修正されるまで、私はこの狂った宴に付き合わなければならない。

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