――第 15 幕 死んだ玉子焼きと開かないファスナー――
重たい鉄の扉が開く。 気圧差で、鼓膜がボフッと内側に押された。
その瞬間、世界が切り替わった。
雨と排気ガスの冷たい臭いが消え、代わりに暴力的な熱気が顔面を殴りつける。 酸化した揚げ物油。 安っぽいタバコの紫煙。 そして、他人の吐いた二酸化炭素の澱み。
それらが、カラオケボックス「フルーツクラブ」の一〇五号室という、この狭い直方体を隙間なく埋め尽くしている。
「――あ」
誰かのマイク越しの声が、スピーカーからハウリング気味に響いた。
曲が止まる。 今までこの空間を支配していた『きみしにたもうことなかれ』の熱狂が、電源を切られた換気扇のように、慣性だけで数秒回り、そして不自然に静止した。
モニター画面には、採点結果のバーが虚しく伸び縮みしている。 デデン、という間の抜けた電子音だけが、静寂の中で場違いに明るく鳴り響いた。
私は、入り口で立ち尽くしていた。 肩で息をするたびに、濡れた肺がヒューヒューと情けない音を立てる。 ダッフルコートから滴り落ちた雨水が、床のカーペットに黒いシミを広げていく。
視線が集まる。
ソファの中央に陣取る早川。 彼はマイクを握ったまま、私の頭のてっぺんから爪先までを、値踏みするように舐め回した。 その顔は赤い。 汗で前髪が額に張り付き、強烈な生物的熱量を発散している。
「……一足遅かったな、お前」
冷たい。 彼の声には、いつものような「熱」がない。 事実だけを淡々と告げる、裁判官の宣告。
遅刻。 その二文字が、物理的な質量を持って私の上に落下してくる。
私は視線を彷徨わせる。 テーブルの上。 食い散らかされたフライドポテトの残骸。 茶色く変色した唐揚げ。 氷の溶けた水っぽいコーラ。 無数のグラスには、口紅や指紋がべっとりと付着している。
完成されている。 この空間はすでに、私が入り込む余地など一ミリもないほどに、彼らの「時間」で満たされている。
その奥。 部屋の隅に、彼女はいた。
黒髪の少女。 彼女は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で、ポカンと口を開けてこちらを見ている。 眼鏡のレンズが、モニターの光を反射して青白く光る。
その瞳に映っているのは、「待っていた王子様」ではない。 ずぶ濡れで、息を切らし、床を汚している「不快な異物」だ。
「……すみません」
喉の奥から、乾いた砂のような謝罪がこぼれ落ちた。 誰に向けたものでもない。 ただ、この場の空気を汚染してしまったことへの、生理的な反射。
私は、逃げるように空いているソファの端へ向かった。 濡れたズボンが、合皮のシートに張り付く。 不快だ。 冷たいような、生温かいような、得体の知れない感触が尻に伝わる。
挽回しなければならない。 このままでは、私はただの「可哀想な遅刻者」で終わる。
そうだ。 私にはアレがある。
この劣勢を一撃で覆し、私をこの場の「主役」へと押し上げるための、黄金の兵器。
私は膝の上に置いた鞄に手をかけた。 ずしりと重い。 今朝、完璧な芸術品として焼き上げた玉子焼きが、タッパーの中で出番を待っているはずだ。
「実は、差し入れを……」
言いながら、ファスナーの引き手を掴む。
動かない。
指先に力を込める。 爪の間が白くなる。
動かない。
おかしい。 錆びているわけではない。噛んでいるわけでもない。 まるで、ファスナーの金属エレメント同士が、分子レベルで癒着し、溶接されたかのように一体化している。
ギーッ。 爪が滑る音が、静かな部屋に不快に響く。
「なんや、開かんのか?」
早川の声。 嘲笑が含まれている。あるいは、哀れみか。
焦りが、脇の下から冷たい汗となって吹き出す。 開けろ。 開いてくれ。 お前だけが頼りなんだ。
私は祈るように、いや、呪うように鞄をねじり、強引にこじ開けようとした。
その時。
プシュ。
ファスナーの極小の隙間から、空気が漏れた。
ヒュッ。 私は息を呑んだ。
臭い。
漏れ出してきたのは、食欲をそそる出汁の香りではない。 もっと、粘着質で、胃の腑を直接撫で回すような、甘ったるい腐敗臭。
生温かい空気。 まるで、鞄の中に「死にかけた小動物」が詰め込まれていて、その体温と排泄物の臭いが混ざり合ったかのような。
脳裏に、今朝の光景がフラッシュバックする。 プラスチックのように完璧だった黄金色。 あれは、食べ物ではなかった。 私の肥大化した自意識を、卵という有機物に無理やり封じ込めた「呪物」だったのだ。
それが今、半日の時間を経て、鞄という密室の中で急速に変質している。
直感した。 これを出してはいけない。
もし今、このファスナーをこじ開けて、あの「黄金の成れの果て」をこのテーブルの上に晒したら。 それは、フライドポテトや唐揚げとは決定的に違う、「見てはいけないもの」として、この場の空気を完全に殺すだろう。
私の社会的死。
指の力が抜けた。 鞄が、ゴトリと膝の上で重い音を立てる。
「……いや、なんでもない」
私は鞄を抱きしめるようにして、体を丸めた。 中にある「死体」の生温かさが、濡れた服を通して腹部に伝わってくる。
「なんやねん、気色悪い」
早川が鼻を鳴らし、新しい曲を入れるためにリモコンを操作し始めた。 ピ、ピ、ピ。 電子音が、私の敗北を確定させるカウントダウンのように響く。
私は、薄暗い部屋の隅で、ただの背景の一部になり下がった。 モニターの光がチカチカと明滅し、私の顔に青白い影を落としている。
隣の席の彼女が、ウーロン茶のストローを回す音が聞こえる。 カラン、カラン。 その音は、私と彼女の間にある、永遠に越えられない透明な壁を叩く音のように聞こえた。
喉の奥から、鉄の味がした。 全力疾走の代償か、それとも噛み締めた唇から流れた血か。 飲み込むと、胃の中で冷たく固まった。




