――第 14 幕 鉄の味の雨と拒絶するドア――
自動ドアが開いた瞬間、世界が液体に変わっていた。
豪雨。 空から水滴が落ちてくるなどという生易しいものではない。 数千本の氷の針が、重力加速度に乗ってアスファルトへ突き刺さり、跳ね返った飛沫が足元を濡らす。
躊躇う時間はない。 私は、白い壁のような雨幕の中へ飛び込んだ。
バチバチバチッ。
顔面に当たる雨粒が、物理的な痛みを伴って皮膚を叩く。 寒い、冷たい、という感覚を超え、ただひたすらに「痛覚」として処理される。
ダッフルコートのウール生地が、瞬く間に水を吸い込み、鉛のような質量へと変貌する。 重い。 一歩踏み出すたびに、水を含んだ繊維が肩に食い込み、体力を根こそぎ奪っていく。
走る。 土佐道路の歩道を、泥水を跳ね上げながら疾走する。
呼吸が続かない。 冷たく湿った空気を吸い込むたびに、肺胞が凍りつき、内側からバリバリと音を立てて引き裂かれる感覚。
喉の奥から、強烈な鉄錆の味がせり上がってくる。 血の味だ。 酸素交換の限界を超えた肉体が上げる、生理的な悲鳴。
視界が悪い。 眼鏡のレンズに水滴が付着し、対向車のヘッドライトを乱反射させている。 世界が、光の斑点と闇のノイズだけに還元されていく。
間に合うのか。 いや、間に合わせる。 思考などない。あるのは、ただ足を前に出すという単純なピストン運動への執着のみ。
前方に、極彩色のネオンが見えた。 「フルーツクラブ」。 安っぽい果物のイラストが描かれた看板が、雨の中で滲んでいる。
到着した。
私は、呼吸困難に陥った魚のように口を開閉させながら、店内に雪崩れ込んだ。
生温かい空気。 揚げ物の酸化した油の臭いと、タバコの紫煙が混ざり合った、カラオケ店特有の湿った大気。
レジの店員が、ずぶ濡れの私を見て眉をひそめる。 無視だ。 そんな他人の視線を気にしている余裕はない。
指定された部屋は、廊下の一番奥。
濡れたスニーカーが、リノリウムの床で不快な音を立てる。 キュッ、キュッ、キュッ。 その摩擦音が、私の焦燥感を煽るメトロノームのように響く。
廊下が長い。 異常だ。 走っても走っても、奥の突き当たりが近づいてこない。
壁紙の幾何学模様が、視界の端でうごめいている。 照明がチカチカと明滅し、空間の遠近感を狂わせている。 まるで、この廊下自体がゴムのように伸張し、私を目的地から遠ざけようとしているかのような錯覚。
肺が焼ける。 心臓が肋骨を裏側からハンマーで殴打し続けている。
ようやく、そのドアの前に立った。 「Room 105」。
ドアノブに手を伸ばす。 指先が震えている。 寒さのせいか、それとも、この先に待つ「完成された世界」への生理的拒絶か。
中から、重低音が漏れ聞こえてくる。 ドンドンドン……。 ベースの振動が、ドアの鉄板を通して私の掌に伝わる。
『きみしにたもうことなかれ』
アニメソングだ。 大合唱。 タンバリンの音。 歓声。
楽しそうだ。 あまりにも、楽しそうだ。
その音圧が、見えない壁となって私を押し返そうとする。 ここには、私の入り込む隙間など、1ミリたりとも存在しないのではないか。
ノブを握る。 冷たい。 そして、物理的にありえないほど重い。
ガチャリ。
金属のラッチが外れる音が、断頭台の刃が落ちる音のように、私の耳元で鋭く響いた。
開けるしかない。 この重たい鉄の扉の向こう側で、私の「遅刻」という名の罪状が読み上げられるのを待つために。
私は息を止め、鉄の味がする唾を飲み込んで、ドアを押し開けた。




