――第 13 幕 覚醒のベルと粘着する迷宮――
ブーッ。ブーッ。
太腿の神経に、断続的な振動が突き刺さる。 ポケットの中のスマートフォン。 それが発する無機質なバイブレーションだけが、この甘ったるい空間における唯一の「異物」だ。
私はストローを離し、画面を見る。 『早川』の二文字。
通話ボタンをスライドさせる。
『おい、お前今どこや! 何時やと思っとるんや!』
ドォン。
鼓膜が破裂した。 いや、脳内に直接、ドリルで穴を開けられたような衝撃。
その怒声は、単なる音声データではない。 この空間を支配していた「停滞の魔法」を物理的に粉砕する、強制覚醒信号だ。
ハッとして、腕時計を見る。
短針の位置。 私の認識していた座標と、決定的にズレている。
午後、三時二十六分。
呼吸が止まった。 心臓が肋骨を裏側から殴打する。
四時間。 私の人生から、四時間という時間が、跡形もなく消失している。
キング・クリムゾン。 あるいは、アンナという重力源による時間の遅延。
「……帰る!」
椅子を蹴る。 ガタッという音が、店内の緩慢なBGMを切り裂く。
目の前のグラス。 氷が完全に溶けきり、茶色く濁った液体が水面張力で震えている。 その表面に、私の青ざめた顔が歪んで映っている。
「は? 何言ってるの」
アンナがスプーンを止める。 彼女の眼鏡が白く光り、表情を隠蔽している。
無視だ。 説明などしている時間はない。 私は財布から千円札を抜き出し、テーブルに叩きつけた。
ビラッ。 紙幣が濡れたテーブルに張り付く音。
走る。 出口へ。
だが。
「待ちなさいよ!」
背後から、アンナの声が追いかけてくる。 それは言葉ではない。 背中に突き刺さり、筋肉を硬直させる物理的な棘だ。
通路に出る。 人の波。
異常だ。 さっきまではスムーズに流れていたはずの買い物客たちが、今は私の進行方向を塞ぐように、ゆっくりと、あまりにもゆっくりと動いている。
粘性。
空間の密度が変わっている。 空気そのものが、半透明のゲル状の流体に変質し、私の手足にまとわりつく。
重い。 一歩踏み出すたびに、靴底が床のワックスに吸着し、ベチャ、ベチャと不快な音を立てる。
エスカレーターに乗る。 遅い。 逆走しているのではないかと錯覚するほど、階下への移動が遅い。
『いらっしゃいませ。ポポポポ……』
店内放送が、テープが伸びきったように間延びして聞こえる。 音程の狂った電子音が、私の三半規管を狂わせる。
早く。 早く行かなければ。
階下に見える自動ドア。 あそこが、この「消費の迷宮」と「現実」を隔てる境界線だ。
「逃げる気!?」
頭上から、金切り声が降ってくる。 アンナだ。 彼女はこの迷宮の管理者として、獲物の逃走を許さない。
私は、最後の力を振り絞って床を蹴った。 ゲル状の空気を切り裂く。
自動ドア。 センサーが反応するまでのコンマ数秒が、永遠のように長い。
ウィーン。
間の抜けた電子音と共に、ガラスの扉が開く。
その瞬間。 暴力的なまでの冷気が、熱を持った頬を殴りつけた。
外だ。 肺の中に、排気ガスと冬の乾燥した空気が雪崩れ込む。 粘膜がヒリヒリと痛む。
脱出した。 だが、まだ終わっていない。 ここからが、本当の「遅刻」という名の地獄の始まりだ。
背後で、自動ドアが閉まる音。 プシューッ。 それは、私をこの世界から締め出す、エアロックの閉鎖音のように聞こえた。




