第3章 19話 グレンとセリル
昼の光が、孤児院の庭を照らしている。
だが、空気は張りつめたままだった。
グレンは、門の内側で一歩も引かずに立っていた。
兜は被ったまま。
子どもたちの視線が、庭の奥からちらちらと向けられているのが分かる。
男は、ゆっくりとグレンを見上げた。
その視線は、鎧の継ぎ目、肩の張り、体格――
“中身”を知っている者の目だった。
「……ずっと、兜を被っておられますね」
穏やかな声。
だが、探るような響きがある。
「なぜですか?」
グレンは、答えなかった。
ただ、門の内側に立ち続ける。
男は、わざとらしく肩をすくめる。
「……なるほど」
「答えられない理由が、あるわけだ」
その時だった。
庭の奥から、
ぱたぱたと小さな足音が近づいてくる。
「……シスター?」
ユーノだった。
その後ろにも、年の近い子どもが二人ついてきている。
「……だいじょうぶ?」
シスターが、はっとして振り向く。
「ユーノ、来てはいけません」
「中へ戻りなさい」
だが――
ユーノの視線は、兜の男に吸い寄せられていた。
「あ……」
「よろいのおじちゃん」
その一言で、
男の目が、わずかに細まった。
――“気づいた”。
男は、子どもの前に、ゆっくりと膝をつく。
視線を下げ、声の調子を、優しく整える。
「ねえ、坊や」
「この人が、誰か……知ってる?」
ユーノは、きょとんと首を傾げる。
「……よろいの、おじちゃん、だよ?」
男は、にこりと微笑む。
だが、その笑みの奥には、はっきりとした悪意があった。
「違うんだ」
「この人はね――」
そこで、男は、はっきりと言った。
「“オーク”なんだよ」
空気が、凍る。
シスターが、思わず叫ぶ。
「やめなさい!」
だが、男は止まらない。
「知ってるだろう?」
「悪いことをしたら――」
「オークが、攫いに来るって話」
子どもたちの目が、
ゆっくりと、グレンへ向く。
ほんの一瞬前まで、
“鎧のおじちゃん”だった存在が、
“物語の中の怪物”に変わる。
ユーノの指先が、
きゅっと、セリルの服を掴む。
「……ほんと?」
問いかけは、無垢だった。
だが――
その無垢さこそが、
最も残酷な刃だった。
グレンは、ゆっくりと膝をついた。
子どもと同じ目線になる。
兜は、脱がない。
だが、声だけは、はっきりと届くように言った。
「……違います」
低く、静かな声。
「私は」
「誰も攫いません」
男が、薄く笑う。
「さあ、どうでしょう」
「物語は、嘘をつきませんよ」
その言葉に、
グレンの拳が、ぎり、と音を立てた。
だが――
剣には触れない。
怒りを、
“守るための力”へと、必死に抑え込んでいた。
庭に吹いた風が、
子どもたちの髪を揺らす。
穏やかな昼の中で――
“最も汚れた刃”が、
子どもの心へと、向けられていた。
男は、わざとらしく周囲を見回した。
庭で遊んでいた子どもたち。
物陰からこちらを窺っていた子どもたち。
――“聞こえる距離”を、意図的に選ぶ。
「みんな、聞いてくれるかな」
やけに優しい声。
「この人はね――」
「オークなんだ」
ざわ、と空気が揺れる。
「……え?」
「オーク……?」
子どもたちの視線が、
一斉に、兜の男へ集まる。
男は、ゆっくりと、指先でグレンを示した。
「ほら」
「兜を脱がないでしょう?」
「それが“証拠”だよ」
グレンは、動かない。
兜に触れることも、剣に触れることもない。
子どもたちの顔色が、
みるみる変わっていく。
「……こわい」
「ねえ……おじちゃん……こわいよ」
誰かが、泣きそうな声で言った。
「おじちゃん……」
「ぼくたちを……さらおうとしてるの?」
その問いは、
ナイフよりも鋭く、
グレンの胸に突き刺さった。
「……おじちゃん、悪い人なの?」
答えられない。
否定の言葉を出すほど、
“姿を見せられない理由”が重くなる。
「違います」
声は、かすれた。
だが、子どもたちの怯えは、止まらない。
その瞬間だった。
「もう、やめなさい!!」
シスターが、子どもたちの前に立った。
「中へ入りなさい!」
「今すぐです!」
その声は、
普段の穏やかなものではなかった。
子どもたちは、びくりと肩を震わせ、
一人、また一人と、建物の中へ駆け込んでいく。
男は、その光景を、
ゆっくりと眺めていた。
「……ああ」
「孤児院を守っていたのが」
「実は怪物だったなんて」
「かわいそうな子どもたちだ」
その視線が、ゆっくりとセリルへ向く。
「あなたも、そう思うでしょう?」
セリルは、息を呑む。
「ああ、そうでしたね」
「あなたは、目が見えない」
「だから――」
男の声が、
ねっとりと、残酷に落ちる。
「この“野蛮で”」
「“恐ろしい姿”が、分からない」
言葉が、
棘のように、突き刺さる。
グレンの拳が、震える。
だが――
言い返せない。
ここで怒鳴れば、
子どもたちの“物語”を、
自分で肯定することになるからだ。
――“怪物”として振る舞うわけには、いかなかった。
男は、ゆっくりと歩み寄った。
「さあ」
「“協力”の話に戻りましょう」
「あなたの力は、街のためになる」
その手が、
セリルの腕に伸びる。
――その瞬間。
ぱしっ。
乾いた音。
セリルが、男の手を、振り払った。
「……取り消しなさい」
声は、震えていた。
「この人は……」
「そんな人じゃありません」
唇を噛み、
目に涙を浮かべながら、
それでも、はっきりと言い切る。
「この人が……」
「どれだけ優しくて」
「どれだけ、人のことを思えるか……」
「どれだけ、人の幸せを願える人か」
息が、詰まる。
「……あなたには、分からない」
感情が、溢れ出る。
「謝ってください」
「……謝って……」
庭の空気が、
一瞬、静止した。
男は、わずかに目を細める。
「……なるほど」
男は、ゆっくりと一歩、下がる。
「今日は、引きましょう」
「……少し、荒っぽくなりすぎました」
口ではそう言いながら、
視線は、最後までセリルから離れない。
「ですが――」
くるりと踵を返しながら、
淡々と告げる。
「すぐ、戻ってきます」
門が、重く閉じられる。
孤児院の庭には、
再び、子どもたちの声が――
戻らなかった。
門が閉まり、
男たちの気配が完全に遠ざかる。
孤児院の庭には、
昼の光だけが残った。
風が、洗濯物を揺らす音。
さっきまでの出来事が夢のように感じられる。
その静けさの中で――
セリルの肩が、小さく震えていた。
「……ごめんなさい」
声が、かすれる。
「……私の、せいで……」
セリルは、ゆっくりと顔を伏せた。
涙が、ぽろりと一粒、地面に落ちる。
「……あんなことを、言わせてしまって」
「……グレンを……」
言葉が、途中で崩れる。
「……傷つけて、しまった」
両手で顔を覆う。
嗚咽を、必死に飲み込もうとする。
「……私が……」
「……私が、狙われてるから……」
「……だから……」
震える声が、途切れ途切れに続く。
「……あんなふうに……」
「……オークだって……」
「……子どもたちの前で……」
セリルは、歯を食いしばる。
「……ごめんなさい」
「……ごめんなさい……」
グレンは、しばらく、動かなかった。
兜の奥。
その表情は、誰にも見えない。
だが――
拳が、ほんの少しだけ、強く握られていた。
「……謝る必要は、ありません」
低く、穏やかな声。
セリルは、顔を上げる。
涙で滲んだ視界の向こうに、
鎧の胸元がある。
「……でも……」
「……私のせいで……」
グレンは、ゆっくりと首を振った。
「……あなたが謝ることではない」
間を置いて、
グレンは、少しだけ声を落とす。
「あなたは――」
「私を、守ってくれました」
セリルの肩が、揺れる。
「……私が……?」
「はい」
即答だった。
「私の“姿”ではなく」
「私の“中身”を」
「あなたは、信じてくれた」
兜の奥から、
ほんのわずかな、柔らかい息が漏れる。
「……それだけで」
「私は、救われています」
セリルは、堪えきれず、
その場に膝をついた。
嗚咽が、溢れる。
「……あなたを……」
「……深く、傷つけてしまったんじゃないかって……」
グレンは、ゆっくりと膝を折った。
子どもたちに向ける時と、同じ目線。
大きな手が、
そっと、セリルの肩に触れる。
触れ方は、
驚くほど、優しかった。
「……あなたは、誰も傷つけていません」
その言葉は、
慰めではなく、
“事実”だと諭すように、落とされた。
「……あの言葉に、声を上げたあなたは」
「……誰よりも、勇敢でした」
セリルは、声を殺して泣いた。
昼の光の下。
孤児院の庭に、
小さなすすり泣きの音だけが、
しばらく残っていた。




