第3章 20話 何も奪われなかった日
薄暗い部屋。
石壁に掛けられた灯りが、揺らめいている。
オウル――
“梟”の名で呼ばれた男は、椅子に深く腰を下ろしていた。
孤児院で見せていた柔らかな顔からは、想像もつかないほど、表情は引きつっていた。
「……向こうは、もう気づいているな」
低い声。
独り言のようでいて、確信が混じっている。
部屋の隅には、例の“商会を装った建物”の簡易図が広げられていた。
オウルは、ふと視線を奥へ向ける。
――シャルルたちが侵入し、証拠を見つけた“秘密の場所”。
何もない壁。
だが、オウルの目は、そこに“何か”を見ていた。
「……やられたか」
目を細める。
苛立ちではなく、感心に近い感情。
そこへ、部下が頭を下げて入ってきた。
「オウル様」
「“上”の許可が出ました」
オウルの口元が、わずかに歪む。
「……そうか」
「なら、もう遠慮はいらん」
立ち上がり、淡々と命じる。
「次は、“回収”だ」
「孤児院ごと、面倒を見る」
空気が、わずかに重くなる。
その時、一人の男が前に出た。
「……私が、お助けましょうか?」
“モス”
蛾の名で呼ばれる、細身の男。
「お前の“能力”なら」
オウルは、目を細める。
「確かに、適任だな」
モスは、薄く笑う。
「子どもを誘拐する程度なら」
「息をするほどに」
その言葉に、部下の何人かが顔を歪める。
だが、誰も止めない。
「念のためだ」
オウルが、視線を横へ向ける。
「“クロウ”も呼べ」
「……クロウ様を?」
「そうだ」
「逃げ道を、完全に潰す」
オウルは、部屋の出口へ向かいながら、低く呟いた。
*
シャルルとルゥは、ギルドのカウンター前に立っていた。
机の上には、例の書付と、写し取った印章。
「……これが、“証拠”だ」
シャルルの声は低い。
リディは、眉をひそめながら書類に目を通す。
「……決定打には、少し弱い」
「でも――」
視線が、ジキルへ向く。
「動かないわけにはいかないわね」
リディはジキルの方を向いて、短く頷いた。
リディは、即座に指示を飛ばす。
「討伐隊を編成」
「騎士団にも話を通す」
「場所は、フェレル街はずれの建物」
ギルドの空気が、一気に張りつめる。
「とりあえず、シャルとルゥは孤児院へ」
「わしはアジトをたたく」
「……分かった」
シャルルとルゥが、小さく呟いた。
*
夜明け前。
討伐隊と騎士団は、建物を包囲していた。
「突入――!」
扉が破られる。
だが――
中は、もぬけの殻だった。
残されていたのは、
急いで運び出した痕跡と、
いくつかの書類、
そして――
消しきれなかった“証拠”。
「……逃げられたか」
ジキルが、低く吐き捨てる。
「拠点を、もう一つ持ってやがったな」
騎士団の一人が歯噛みする。
「だが――」
ジキルは、拾い上げた書類を見つめる。
「“確定”ではないが」
「もう言い逃れはさせん」
*
グレン、セリル、レン、ハルは、短い報告をし合っていた。
「次は、強硬手段に出る可能性が高いです」
グレンが言う。
「……見張りを、もっと厚くしましょう」
ハルも頷く。
「子どもたちの動線」
「裏道」
「夜の巡回――全部、見直そう」
グレンは、兜の奥で、静かに息を吐いた。
「……私は、門の外側に立ちます」
「混乱を生むかもしれませんので」
誰も、反対しなかった。
*
翌日。
昼下がり。
孤児院の裏で、
シスターが、誰かに呼び止められる。
「……あの」
振り向いた先にいたのは――
見覚えのない、
穏やかな笑顔の男だった。
*
「ただいま戻りましたよ」
聞き慣れた声。
聞き慣れた歩き方。
――シスターだった。
子どもたちは、すぐに駆け寄る。
「シスター!」
「おかえりー!」
「どこ行ってたの?」
「少し、教会の用事で出ていました」
柔らかな声。
完璧な微笑み。しゃがみ込み、子どもたち一人ひとりに手を伸ばした。
頭を撫でる。
肩に触れる。
頬に、軽く指を添える。
「よく遊びましたね」
「お腹、すいていませんか?」
袋から、焼き菓子がいくつも出てくる。
「わあ……!」
「お菓子だ!」
数人の子どもが、受け取って口に運ぶ。
「……おいしい!」
その時だった。
門の方から、足音。
セリルとハルが、庭へ戻ってくる。
「……シスター?」
ハルは、違和感に眉をひそめた。
だが、セリルは――
その場で、ぴたりと足を止めた。
魔力の流れ。
人の“輪郭”。
そこにあるはずの、
“馴染みの波長”が、ない。
「……違う」
声が、はっきりと落ちる。
「……あなた」
「……シスターじゃ、ありません」
庭の空気が、凍りついた。
子どもたちが、不安そうにこちらを見る。
レンが駆けつける。
「……子どもから、離れろ」
レンが叫ぶ。
”シスター”は、ゆっくりと振り返った。
そして――
心底、楽しそうに笑った。
「……さすがですね」
低い声。
小さく、感心したように頷く。
「気づかれるのが、予想より早い」
「――褒めてあげましょう」
レンが、一歩前に出る。
「……目的は、なんだ」
「もう、終わりましたよ」
”シスター”は、視線を子どもたちへ滑らせる。
「今日は、下見です」
「この場所の“守り”と」
「どこまで近づけるかの確認」
そして、
にやり、と口角を上げる。
「十分、収穫でした」
レンが取り押さえようとした、
次の瞬間。
足元の影が、歪む。
まるで、空気そのものが揺らいだかのように。
「待て!」
外にいたグレンも同時に駆け出す。
だが――
モスの姿は、
次の瞬間には、
門の外へ“溶けるように”消えていた。
通りへ飛び出す二人。
レンが、歯噛みする。
「……くそっ」
「見失った……!」
路地。
屋根の影。
気配は、完全に消えている。
「すみません」
「やはり……中にいるべきでした」
グレンは、拳を握りしめた。
*
孤児院の庭へ戻ると――
子どもたちは、呆然として立っていた。
「……ねえ」
「さっきの、シスター……ちがったの?」
セリルは、しゃがみ込み、
ユーノの頭に、そっと手を置く。
「……怖い思いをさせて、ごめんなさい」
だが――
子どもたちの様子に、異変はない。
菓子を食べた子どもたちも、
普段と変わらない様子だった。
そこへ――
シスターが、建物の奥から、ふらふらと出てきた。
「……あれ……?」
「私……少し、居眠りを……」
床に敷いた布団の上で、
眠っていただけだったらしい。
慌てて、医者が呼ばれる。
子どもたち。
シスター。
どちらにも、異常はない。
「体調に問題は、見当たりません」
医者の言葉に、
ようやく、全員が息を吐いた。
だが――
“何も起きなかった”わけではない。
モスは、
孤児院に入り込み、
子どもたちに触れ、
守りの配置を見切り、
そして――
笑って去っていった。
それが意味するのは、ひとつ。
――次は、本気で来る。
誰もが、
その予感を、
はっきりと共有していた。
*
地下に掘られた、簡素な作戦室。
湿った石壁に、松明の火がゆらゆらと影を落としている。
オウルは、地図の前に立っていた。
新しいアジト。
逃走経路。
包囲を想定した抜け道。
そこへ――
影から、ふっと人の気配が滲み出る。
「戻ったか」
オウルは、振り向かない。
「ええ」
モスは、軽く一礼した。
「……仕込みは、完了しましたよ」
オウルの指が、地図の端をなぞる。
「守りは?」
「入るのは簡単でしたが」
「次は分かりませんねぇ」
モスは、口角を歪める。
「私の変装を」
「“気づく者”が一人いましたので」
「ほう?」
「目的の女です」
「……盲目、か」
オウルは、ふっと鼻で笑った。
「構わん」
「“気づく”だけでは、守れない」
モスは、静かに頷く。
「次は、潜入の必要もありませんから」
オウルは、ようやく振り返る。
「……よくやった」
そして、低く告げた。
「次は――“回収”だ」
松明の火が、
二人の影を、壁に大きく歪ませた。




