第3章 17話 静かな夜に牙を研ぐ
夜が、静かに街を包んでいた。
孤児院の灯りは、いつもより早く落とされている。
子どもたちは既に眠り、
庭には、人の気配がない。
だが――
“静かなだけ”で、安心できる夜ではなかった。
*
レンとハルは、建物の影に身を潜めていた。
壁際の物陰。
外から見れば、ただの暗がりだ。
レンは、剣の柄に手を置いたまま、視線を巡らせる。
「……静かすぎるな」
「うん」
ハルは小さく頷いた。
「何も起きてない夜ほど、怖い」
孤児院の窓の一つに、淡い明かりが残っている。
そこには、シスターとセリルがいる。
セリルは、窓辺に立ち、
呪われた目の布に指を添えていた。
(……明日か)
分かっている。
だが、“分かっているから平気”にはならない。
グレンは、建物の裏手から庭へと回り、
静かに見回りを続けていた。
そのとき――
物陰から、ひょこっと顔を出す影があった。
「あ……」
ユーノだった。
その後ろに、年の近い子どもが二人。
「……よるのおさんぽ?」
眠そうな目をこすりながら、
兜の男を見上げる。
「あ、よろいのおじちゃんだ」
別の子が、小さく声を上げる。
グレンは、すぐに膝をついた。
できるだけ、目線を低くする。
「……また、会いましたね」
ゆっくりと、ユーノの頭に手を置く。
大きな手。
だが、触れ方は、ひどく優しい。
「夜は、冷えます」
「風邪をひきますよ?」
「さむいよ」
別の子が、小さくくしゃみをする。
「……中へ戻りなさい」
「シスターが、心配します」
「うん……」
ユーノは、少し名残惜しそうにしながらも、
振り返って言った。
「……またね」
「はい」
「……おやすみなさい」
ユーノは、そう言って、
もう一度だけグレンを見上げる。
グレンは、
その小さな背中が建物に消えるまで、
黙って見送った。
兜の奥で、
ほんのわずかに息を吐く。
(……必ず、守る)
それは誓いだった。
誰に向けたものでもない、
自分自身への誓いだった。
*
シャルルとルゥ、シリィはフェレルに辿り着いた。
夜の街は、別の顔を持つ。
人の流れが途切れ、
灯りが減り、
影だけが濃くなる。
シャルルは、建物の高い塀の上にいた。
夜色の外套に身を包み、
完全に“輪郭”を消している。
「聞こえてるか?」
シャルルの言葉に、少し離れた場所にいるルゥは手を挙げて反応する。
ルゥの《盗み聞き》が繋がっていた。
「上出来だ」
シャルルは小さく息を吐く。
塀の向こう側。
庭には、昼間と同じように見張りが立っている。
だが――
配置が、増えている。
(……やっぱりな)
男たちは、昼よりも緊張した様子で巡回している。
武器の位置。
目線の動き。
隠し通路らしき場所。
(ここは“商会の屋敷”じゃねぇ)
シャルルは、影を縫うように塀を越えた。
足音は、ない。
存在感も、ない。
中庭の回廊を抜け、
建物の裏口へ。
扉の隙間から、声が漏れていた。
「……例の“目”の女は、明日でいい」
「抵抗するなら?」
「……」
シャルルは、ゆっくりと息を整えた。
*
ギルドの灯りは、まだ消えていなかった。
遅い時間だが、
緊急対応の窓口だけは開いている。
ジキルは、カウンターに肘をつき、
リディを見下ろしていた。
「……相談じゃ」
「裏の話になる」
リディは、一瞬だけ周囲を見回し、
声を落とす。
「また厄介ごと?」
「まぁ、そうじゃな」
ジキルは、低く笑った。
「フェレルの街はずれの建物」
「最近、妙に人の出入りが増えている」
「シャガルの可能性が高い」
リディの目が、鋭くなる。
「……証拠があれば、動ける」
「でも、“噂”だけじゃ、踏み込めない」
「分かっておる」
ジキルは頷いた。
「明日、動く」
「……明日?」
「“善意の訪問”があるらしい」
ジキルは、口の端を歪める。
「……胸糞の悪い話じゃ」
リディは、短く息を吐いた。
「証拠が出たら――」
「すぐに部隊を出す」
「それでいい?」
「当然じゃ」
ジキルの目は、笑っていなかった。
「分かった」
「人を集めておくわ」
「頼む」
「……またお金がかかるわね」
*
シャルルは、塀の影から一度だけ身を引いていた。
そのまま、来た道を戻り、
待機していたルゥの前に立つ。
いつもの軽口を叩く余裕はなかった。
「……明日の昼、中まで潜る」
「今は、人が多いが」
「孤児院に行く連中が減る分」
「手薄にはなるだろう」
ルゥは、ごくりと喉を鳴らす。
「……大丈夫?」
「ああ」
シャルルは、壁の向こうを一度だけ振り返る。
ルゥは、少しだけ迷ってから、胸元に手を当てた。
「……ティーユ、呼ぶね」
小さく息を吸い、
精霊召喚の詠唱が、囁き声で紡がれる。
空気が、わずかに湿る。
水の気配が、淡く集まり――
透き通るような精霊の姿が、現れた。
『……呼んだ?』
ティーユは、眠そうに瞬きをする。
「シャルルさんを……」
「手伝ってほしくて」
ルゥの声は、少し震えていた。
シャルルは、眉をひそめる。
「……二体同時か」
「お前、無理してねぇか?」
ルゥは、ぎゅっと拳を握る。
「……大丈夫」
「ちゃんと、頑張れるよ」
ティーユが、ふわりとシャルルの肩の後ろへ回る。
『姿を消すくらいなら……できるよ』
『水の精霊は姿を消すのが得意なのよ』
なぜか、シリィが胸を張る。
『私の気配遮断と合わせたら』
『怖いもんなしね』
「さすがだな」
シャルルは、軽く笑って答えた。
「とりあえず、待つか」
ルゥは、シャルルを見上げる。
「……絶対、戻ってきてね」
「当たり前だろ」
*
夜が明け、
孤児院に朝のざわめきが戻った。
子どもたちは、何も知らない顔で走り回り、
昨日と同じように、笑って、転んで、叱られている。
その光景は――
あまりにも、平和だった。
だが、
レンの胸の奥では、
昨日の男の声が、まだ消えていなかった。
(……“明日、また来る”)
庭の端。
建物の影。
通りへ続く門の近く。
誰に見せるでもない、
“配置”が、すでに出来上がっていた。
グレンは、いつものように兜を被り、
門の内側で静かに立っている。
セリルは、シスターのそばで、
子どもたちの相手をしていた。
太陽が、空の高い位置へ昇る。
時間が、
“約束の刻”へと、静かに近づいていく。
誰も声には出さない。
だが――
全員が、同じことを思っていた。
今日、動く。
もう一度、
“善意の顔”で来るなら――
その裏側を、引きずり出す。
穏やかな昼の光の下で、
見えない戦いの、
幕が上がろうとしていた。




