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魔王様はなりゆきまかせ  作者:
魔王様の長い長いはじまりの日
16/37

断章

 その異変に真っ先に気づいたのは、エウフロシネ神殿の聖女・クインシアだった。

 唐突に背筋が総毛立ち、反射的に聖句を口ずさむ。結いあげようとしていた髪が、小さな肩を滑り落ちた。

 魔王討伐の旅で研ぎ澄まされた直感であり、不浄に敏感な魂の告げる警告。理解が一拍遅れてやってくる。


(ありえませんわ。このタイミングで魔界に穴が開くなんて)


 心臓が不吉にひどく脈打つ。まるで頭からつま先まで、全身の毛穴が開いたように感じる。

 二の腕をさすりながら、聖衣の裾が乱れるのも構わず、足早に窓辺へ向かう。

 慣れ親しんだ神殿の私室からは、さわやかな朝の街並みが見渡せる。屋台の呼び込みの声、パンの焼ける匂い、水汲みを手伝う子供達。開け放した窓の向こうには、エウフロシネの子らの愛する穏やかな営みが広がっている。

 彼らは女神からの預かりもの、クインシアがその手で護らねばならない民だ。


 クインシアは厳しい目つきで、遥か彼方を見据えた。

 一瞬だった。

 だが、確かに噴き出た魔界の空気を捉えた。他の誰が見逃しても、自分は見逃しはしない。

 おそらく気がついたのは、自分を含めこの世で数人。

 あれは自然発生のものではない。自然発生ならば、そもそも閉じたりしない。穴は開きっぱなしである。

 だが、このクインシアがようやく感知できるほど素早く、穴を開け、すぐさま閉じるという高度な芸当ができる者は、魔界と人間界を合わせてもはたして何人存在することか。

 ありとあらゆる可能性が頭の中をめぐる。


(まずは、事態を把握せねばなりません。ですが、私は表立って動けない…)


 クインシアは偉大なるエウフロシネの巫女、この世にたった一人の聖女として、常に賞賛と憧憬を浴びる身である。

 まして、魔王討伐の英雄となった今、一挙手一投足に数多の熱視線が注がれている。やろうと思えば、相槌一つで人を処刑できる立場なのだ。うかつな振る舞いは災いに繋がる。

 じれったくても、誰かに代わりに調べさせるしかない。

 だが、事の詳細を極秘裏に調べ上げられるだけの能力を持ち、なおかつ信頼できる者は限られる。加えて、もし魔族が侵入していた場合、素早く適切な対処ができる人材でなくてはいけない。

 

 異常事態を知る者は、少ない方がいい。今は時期が悪い。

 魔王を倒してから、まだ片手で数えられるほどの日数しか経っていない。不安に縮こまる暮らしからようやく解放された民に知らせるには、あまりに酷だ。もし気づかれれば、一体どんな暴動が起きるか、考えるだけで恐ろしい。

 なにより、華々しい凱旋の直後にこの事態では、女神エウフロシネの御名と勇者一行の名誉に大きな傷がつく。誇り高いクインシアには許しがたいことだ。

 幸いと言うべきか、この事態に気づいているだろう面々は皆、口が固く、思慮深い。むやみに口外することはないはずだ。


(早急に連絡を取らねばなりませんね。)


 内密に、迅速に。誰に。

 まずは賢者の塔に住まう叡智深き老魔法使いエイブラム。その最後の愛弟子にして、同じ魔王討伐の英雄・マリス。

 いざという時のために神殿内部の協力者も必要となる。これは大神官ルーシャンが適役だろう。


(それから…勇者さま)


 クインシアの豊かな胸が甘く痛んだ。

 気恥ずかしくて名前もなかなか呼べない相手を思い、瞳が蜜のようにとろける。

 明るい人。その明るさは、苦しい旅の中でこそ、強く輝いて仲間を励ました。そこに惹かれたのは自分一人ではない。


「決して、抜け駆けなどではありませんわ。これは必要な処置なのです。」


 言い訳がましいが、同じ英雄のマリスにも声をかけるのだから、「一人だけ抜け駆け」という訳ではない。決してない。

 そもそも、他のメンバーはこういった方面の適性がないのだから、声をかけても仕方がない。


「………。一応、リーにも声をかけましょうか。」


 同じく魔王討伐の英雄の一人・リーは、術者ではないが、女神エウフロシネの弓をひく資格を持つ唯一の武芸者である。あまり愉快ではないが、エウフロシネ信仰においては、俗人でありながら、巫女である自分と唯一並び立つ相手だ。

 「勇者」に声をかけるのなら、「勇者の相棒」にも声をかけるのが自然ななりゆきだろう。それに、リーとマリスならば、クインシアにとって恋敵に値しない。


 そんなことを考えながら、クインシアはサイドテーブルの引き出しからナイフを取り出し、長い黄金の髪を五本、根本から切り取った。

 大切に両の手のひらに乗せ、窓の外へ腕を伸ばすと、朝の陽射しを浴びてきらきらと光の粒をこぼす。

祈りの聖句を小さく唱え、ふうっと優しく息を吹きかける。

 瞬きの後、そこには金の蝶が五匹はばたいていた。


「急いで知らせて」


 術者に応えて蝶が矢に変わり、猛スピードで青い空を翔けていく。

 その金の輝きが目で追えなくなっても、クインシアはきゅっと眉をしかめ、しばらく窓辺にたたずんでいた。

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